ひとしずく765-「わたしはある(いる)」(2012年)
主が言われた通りに
海に乗り出したのに
嵐に遭遇して
いくら漕いでも
先に進めそうにない
なぜ、主は
私たちをこんな目にあわせるのか?
主は、嵐が起ると知らなかったのか?
この航海の計画自体
全てが間違いだったのだろうか?
今、私は沈みかけている
何もできずに
しがみついているだけで精一杯だ
しぶきをあげて荒波が襲う
舟は木の葉のように波にもまれ
同朋の士気ももう挫かれた
万事が終わりのように思えた
しかし・・・
そう、そんな時こそ思い出そう
今こそ、主の栄光が顕われる時だということを
自然法則や世のならわしの全てを
超越した力が働くということを
そうだ
無から有を創られる方は
どんな事態の中にも
光、希望、平安、愛、答えを
もたらすことができる方なのだ
「・・・イエスは自分で群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸のベツサイダへ先におやりになった。そして群衆に別れてから、祈るために山へ退かれた。夕方になったとき、舟は海のまん中に出ており、イエスだけが陸地におられた。ところが逆風が吹いていたために、弟子たちがこぎ悩んでいるのをごらんになって、夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らに近づき、そのそばを通り過ぎようとされた。
彼らはイエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。
みんなの者がそれを見て、おじ恐れたからである。しかし、イエスはすぐ彼らに声をかけ、『しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない』と言われた。そして、彼らの舟に乗り込まれると、風はやんだ。」(マルコ6:45-5)
この「わたしである。恐れることはない」という言葉のギリシャ語は、「わたしはある(いる)。恐れることはない」ということです。
この「わたしはある」という言葉は、神様が柴の中でモーセに語りかけ、ご自分について告げられた時に言われた言葉です。
「神は仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」(出エジプト3:14)
イエス様が「わたしはある(いる)」という言葉を使われたことには、深い意味があるように思います。それは、全てを支配しておられる全能の神が共におられるという意味ではないでしょうか?試練の最中にあって、今まさに神が共におられると知ることは、どんなにか心強いことでしょう。そしてその神は一瞬にして嵐を鎮めることも、また試練と共に逃れる道を備えることもおできになる方なのです。
私たちの神様は、試練の最中に不在の神ではありません。
「わたしはある(いる)」
試練の嵐に襲われる時、どうか、この主の言葉を思い出し、平安をもって永遠の愛の港へと導いていただけますように。
「主は、『わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない』と言われた。」(ヘブル13:5)