神の子としての立場で

ひとしずく762-神の子としての立場で

 東京に来て、久しぶりに近くの大きな公園を散歩していました。拡張工事が終わってもう数年も経つその公園を眺めながら、こうなる計画だったのか・・・あの時は気づかなかったな・・・と思っていました。拡張工事が行われていた頃、私はこの付近に住んでいたので、毎日のようにこの公園を散歩していました。そして工事のフェンスに覆われている部分がどのように出来上がるのか、とても楽しみにしていたものです。私は勝手に想像を巡らせて、静かに瞑想できる自分の理想の公園を思い描いていました。しかしそんな予想に反して、多くの人たちがジョギングやウォーキング、犬の散歩などをする賑やかな公園が今、私の目の前に広がっています。
 自分がいかに勝手な想像を働かせていたかと思うと、おかしくなります。私は、今では柵の無くなった芝生の上に立って、人の歩く姿を眺めていました。そこは、私が以前毎日のようにフェンスの窓を通して覗いて立った場所です。考えてみれば、人家がひしめいているこんな所にできる公園が、自分の望んでいたような静かな公園に造られるはずなどなかったのです。
 「人はその願うものを見ている」という言葉を聞いたことがありますが、その言葉に、なるほどと思わされます。そして私がもう一つ思うのは「願うもの」というのは、その人が今どんな「立場」にあるかによって違ってくるのだということです。 例えば、小さな子供を持っている親の立場なら、遊具のある公園を望んだでしょう。運動の好きなスポーツマンという立場なら、充実したスポーツ施設が公園内にあることを望んだでしょう。
 また私のように、静けさと祈りの場所が必要な立場にあるなら、ひっそりとした公園を望んだことでしょう。もし私が、この公園が地域の住民皆に喜ばれるものとなるためにどうしたら良いかと、住民のことや全体的なことを考えている都市公園事業の担当者の立場であったなら、きっとそのビジョンも違ったのでしょう。 これは人生にも同じことが言えると思います。人生のビジョンとは、その人がどのような立場で、それを願い求めているかによって異なってくるのだと思います。では、私たちの置かれている立場とはどのようなものなのでしょう?聖書は、私たちがどのような立場で、何を望むべきかについて教えてくれています。  私たちの立場とは、神の子としての立場であり、その立場にあって、私たちは願い求めるのです。
 神様が御子イエスによってあがなってくださったために、私たちは神の子とされました。神は子として、私たちを限りなく愛しておられます。そのためには命さえ惜しまないほどに。(ヨハネ1:12,13)
 そして愛であられる永遠の神様が、時空に制限されたこの地上の世界に私たちを置かれました。それは、神様の愛と光をこの地上で輝かせるためです。 私たちは皆それぞれに、自分の人生にビジョンを持って生きていますが、それは何に立って見ているビジョンなのか、吟味してみる必要があると思います。私たちのビジョンとは、神の子としての立場から見たものであり、私たちの全ての言動も、やはり神の子としての立場から生まれるものであるべきなのだと思います。神の子としての立場になれば、神様の喜ばれることも、悲しまれることも、よくわかることでしょう。そしてもっと、神の御心に適った生き方ができるようになって行くのではないかと私は思います。どうか、私たちが神の子としての自覚をしっかり持って生きることができますように。 「肉に従う者は肉のことを思いに従う者は霊のことを思うからである。」(ローマ8:5)

このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。 あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。(コロサイ書 3:1-3 )

他の投稿もチェック

神の言葉によって

神の言葉によって 信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。(ヘブル11章11節) 自分のうちには、力も気力ももう残ってはいないと思えても、この朽ち果てて行くからだに、もし神が御声ををかけて下さるなら、その御言葉の種が命を与えてくれることを知っています。神の御心は成し遂げられるからです。...

洪水(信仰のテスト)に備える

洪水(信仰のテスト)に備える 人生、八方塞がりのような場所に立たせられる時が、誰にでも幾度かあるのではないでしょうか? 今、もしかしたら、そうした困難に遭遇している方もおられるかもしれません。世界の情勢がますます混乱に向かっている中、人々もそれに巻き込まれたり、またそうでなくても周りを見て不安に感じ将来に対する行き詰まりを感じている人も少なくないと思います。  イエスが人々から殺されかけた時のことについての、次のように聖句があります:...

前のものに向かって

前のものに向かって わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。 (ピリピ 3章12-14節)...