福音を宣べ伝える パート2

ひとしずく759-福音を宣べ伝える パート2

 神の聖霊は、失われた一匹の羊がどこにいて、叫び求めているかをご存知です。
  だからそうしたところに主は私たちを送って、主の愛と福音、そして真理の御言葉を伝えさせようとしています。私たちは、ただ、主の御霊の流れに自らを委ねて、主に働いてもらうだけなのです。

しかし、主の示される場所は、時に困難が伴います。そしてそんな時信仰が試され、こんなことをしているのは、もしかしたら自分だけなのではないか、というような孤独感に襲われてしまうことがあります。
 あの預言者エリヤでさえも、そうでした。

彼が、自分を殺そうとしているイゼベル女王から逃れていた時、主に仕える預言者は、もう彼一人しか生き残っていないと思い込んでしまいました。そして自分もすぐに女王によって殺されてしまうのだろうと恐れたのです。しかし現実は、彼の他に命をかけて主に仕えようとしている者たちが、その国に七千人もいたのです。

「エリヤは答えた。『わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています』。」(第一列王記19:14)

「(主は、エリヤに言われた)『・・・わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。』(列王記19:18)

 私にも主が示された宣教地で、そんな孤独の戦いを経験した覚えがあります。
それはaru

それはある共産国に、妻と3人の幼い子供たちをつれて行った時のことです。頼れる知り合いは一人もいませんでした。福音を伝える使命に燃えてはいたものの、私たちは地の果てに来てしまったように思え、一気に心細さと不安に襲われたのでした。
しかしそんな私たちを励ましたのが、やっと住むことが許された部屋のドアに貼られた大きなポスターでした。その部屋は以前、外人の英語教師が使っていたということでしたが、その美しい山の風景のポスターには、「I will lift up mine eyes unto the hills, from whence cometh my help」と書かれていました。それは聖書の詩篇121篇1節の「わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。」という言葉でした。
最初、その外人の英語教師がこの部屋に住んでいたことを聞いた時は、共産国、それもこんな辺鄙な所にある学校に、英語を教えるためにどんな気持ちでやってきたのだろうと思っていましたが、彼が残していった一枚のポスターを見て、察しがつきました。そう、彼も私たちと同じ志を持って、ここに来た宣教師だったのです。
このポスターは彼が、自分と同じようにこの地に来て孤独に思っている宣教師への励ましのメッセージとして、残したもののように思えました。そしてそれは、実際、私たちにとって本当に大きな励ましとなりました。
 その国での宣教は、大変なこともたくさんありましたが、主は、幾人もの羊たちを送ってくださいました。
 その中の一人は、私たちに出会う前に、自分のおばあさんからこっそり聖書をもらったという人で、とても熱心に聖書を学んでいました。その後、彼の友人達も、私たちの所に聖書を学びに来るようになりました。
 全く見知らない土地において、もう、私たちは孤独ではありませんでした。
その後、残念ながら訳あって日本に帰らなければならず、私たちは彼らのことが気がかりで、後ろ髪引かれる思いで帰国したのでした。
あれ以来、彼らがどうなったかは全くわかりません。しかし、たとえ蒔いた種の成長を見ることはなくても、それが神様の愛の内になされた種蒔きであるなら、決して無駄になることはないと信じます。
主は、必ず何らかの方法で、彼らの心に蒔かれた種を成長させてくださっていると信じています。

今この時にも、どこかの地で、主の召しを受けて、孤独と戦いながらその使命に生きている宣教師はたくさんいると思います。どうか彼らが励ましを受け、その使命を全うできるようにと、心から祈りたいと思います。また、私たちは種蒔きという使命だけでなく、日々、水を注ぎ世話する使命にも忠実に生きることができますように。

「わたし(パウロ)は植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。植える者と水をそそぐ者とは一つであって、それぞれその働きに応じて報酬を得るであろう。わたしたちは神の同労者である。あなたがたは神の畑であり、神の建物である。」(第一コリント3:6-9)

「あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。そこで、『ひとりがまき、ひとりが刈る』ということわざが、ほんとうのこととなる。わたしは、あなたがたをつかわして、あなたがたがそのために労苦しなかったものを刈りとらせた。ほかの人々が労苦し、あなたがたは、彼らの労苦の実にあずかっているのである」。(ヨハネ4:35-38)

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