福音を宣べ伝える パート1

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2024年4月2日

ひとしずく758-福音を宣べ伝える パート1

 「こんな寂しい山間の村には、福音は伝わっていないんだろうな.・・・」
宮古市の仮設住宅の訪問を終えて、盛岡に抜ける106号線沿いの、ぽつりぽつりと古い民家が点在する風景を車窓から眺めながらそう考えていました。
 その前日泊まった宮古の民宿の食堂の壁に、大きく貼られていた「恐山イタコの口寄せ(死者の霊を自分の身に乗り移らせて、その死者の言葉を語る)」のポスターを思い出したせいかもしれません。そのような古い風習のあるこの地域の人たちに、主の愛を知ってほしい、切にそう思いました。
しかし、さすがにこのような寂しいところまで、福音を伝えに来る人はいないのだろうと思って、もどかしい気持ちになっていました。

 私は途中で、ガソリンを入れることにしました。
そして、私はいつものように、ガソリンスタンドの人に「これどうぞ」と言って小さなトラクトを手渡しました。表紙に「虹の約束」というタイトルのついた手の平よりも小さなサイズの聖書の言葉を集めた小冊子です。すると彼はそれを受け取るやいなや、中身も見ないで、私にこう言ったのです。「私は子供の頃、教会の日曜学校に通っていましたよ」と。
 20歳くらいの青年でした。何か懐かしそうに、親しみのあるまなざしで私を見つめていました。そして他のお客さんが次々と来ているにも拘わらず、彼は私から離れようとせず、セルフの灯油の給油もほとんど彼がしてくれたのでした。
 彼はついに他の仕事に呼ばれ、私の元を離れることになりましたが、私はその前に、他の福音文書も彼に手渡すことができました。
何と、この寂しい田舎町にも教会があったのです。ここにも福音を伝えに来た人がいたことを思って、私はとても励まされ、救われた思いがしました。

 福音を宣べ伝えるということは本当に忍耐と犠牲の伴うことです。
 以前、キリシタンの迫害についての資料を調べていた時、宣教にやって来る者は皆殺されるというひどい迫害の時期に、あえて命をかけて日本にやって来た宣教師の話を読んだことがあります。迫害のために東北地方北部にまで逃れていった信者たちは、鉱山の坑夫などのように、身分を隠して働ける仕事について生き延びていました。それを知った外人宣教師は、自分が外人だと知られるとすぐに捕まってしまうので、人気のない冬の雪山の、わざと道のないところを選んで、東北地方に散って隠れ住んでいる信者の信仰を励ますために、彼らを探して歩いたということでした。

 それらの昔蒔かれた種がどのようになったかは知りませんが、主イエス様の足跡に従って、福音のために失われた羊達を探しに出かけて行った人たちは、確かにいたのです。
そして、この寂しい山里にも、教会を築き、日曜学校を開いて、種を蒔いた人がいて、そのガソリンスタンドで働いていた若者の心に、その種は宿っていたのです。
 彼が、そのトラクトの表紙を見ただけで、どうして私がクリスチャンだとわかったのか、わかりませんが、きっと霊のうちにピンと通じ合うものを感じたのでしょう。
 彼は今では教会に行っていないようですが、彼が主に好意を持っていることは、私にくっついて離れない様子からよくわかりました。
彼は恐らく、手渡されたトラクトに、懐かしい主の語りかけを聞いたようで、嬉しかったのかもしれません。

あちこちに散らされている羊達は、主の声を聞くと、それに反応しついてくるのです。どうか、一匹の羊も失うことがないように、忠実に証しし、主の囲いに導くことができますように。

「・・・羊はその声を聞き分けます。彼(イエス様)は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」(ヨハネ10:2,3)

「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。(省略)わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かねばならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」(ヨハネ10:10-16)

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