つながっている人々のために パート2 (2013年2月 ひとしずく1100)
原発の事故以来、度々、そこで働く作業員の過酷な労働問題が取り上げられて
います。
以前、福島原発2号基の爆発 当時、中央制御室で働いていた人たちのドキュメ
ンタリーをユーチューブで見ましたが、作業員が何とか爆発を防ごうと、必死に
なっていたのを思 い出します。SR弁というのを開いて、蒸気を逃がさないなら
圧力に絶えられず、格納器が爆発してしまうという危険な事態でした。しかも、
その 安全弁には重大な欠陥があると指摘されていました(同じ型の原子炉が22
基日本にあるそうです)。
そのような緊迫した中で、必死に格納器が爆発しないように作業を続けている
作業員の姿には頭が下がる思いでした。彼らは死を覚悟していたと いうことで
した。
専門家は、今も、決して収束して安心という状態ではない仮の状態だと言って
います。そして、今このように保たれている最中に、問題の隠蔽で はなく、
しっかりとした安全対策を見直さなければと主張していました。
私はこのドキュメンタリーを見て、色々なことを考えさせられましたが、一つ
思い出した聖書の話がありました。それは主がソドムとゴモラをそ の邪悪さゆ
えに滅ぼそうとされた時、アブラハムが必死になって滅ぼさないように嘆願した
時の話です。
神様はそのアブラハムの祈りに対して「そこに十人の正しい人がいたら、滅ぼ
さない」と言われました。神を畏れ敬う人がひとにぎりでもいたな ら、神様は
その人たちゆえに、その町を救うと言われたのです。
私は、この話が、原発事故とダブって見えるような気がしました。欠陥があっ
てもそれについは知らないふりをし続ける無責任で邪悪な組織と、 死を覚悟し
て戦ってくれた人たち・・・。
悪に満ちていたソドムとゴモラの救済の道は、何か技術的な解決策というよ
り、正しい心を持つ人がいるという条件が必要でした。
原 発は水蒸気爆発して放射能は漏れ、それが風によって遠くの地まで流され、
大きな打撃を日本全体に与えてしまいました。しかし、一歩間違えば東 日本全
体が、 だめになってしまっていたかもしれないことを思うと、何とかこの状態
で収まっているのは、奇跡だと思います。それは、こうした死を覚悟した人 た
ちの尊い心 を主が見られ、それに応えられたからではないかと思うのです。
私は、それらの危険を冒し大変な犠牲を払って仕事をして下さっている人たち
に、心から感謝と祈りを捧げたいと思います。
私たちは、この情報社会において多くのことを知らされます。それを知ったと
ころで何ができるのかと、時には圧倒させられることもありま す。しかし、主
を知る私たちは、主がその困難な状況にある人たちの心と共にあり、また彼らの
そうした心に応じて働かれることを信じていなけれ ばならないと 思います。そ
してそれと同時に、彼らのために必死に祈る必要があるのだと思います。
主 は、私たちが塵に過ぎないことを知っておられ、人は誰でも正しい状態であ
ることはできず、罪ある者であることを知っておられます。しかし、だ からこ
そ、そ うした私たちが、誰に強いられてでもなく、正しい行い、愛の一歩を踏
むことを主は見逃されないのだと思います。特に自分の命がどうなるかわか ら
ない覚悟を もっての、その犠牲的な一歩はとても主の目に尊く映るのではない
でしょうか。
私たちはただ、そんな彼らの 姿に感動し感謝するだけではなく、常に必死に彼
らのために祈りを捧げなければと思います。どうかみなさんも一緒にお祈り下さ
い。
祈り:主よ、私たちは、誰一人あなたの御前に正しい人はいません。ですからあ
なたの憐れみに、より頼 まなければなりません。
今、福島原発で働いている人たちのためにお祈りします。その仕事に携わって
いる人たちには、色々な事情があると思います。ある人は経済的 な事情がある
でしょうし、他に道がなくてその仕事をしている人もいることでしょう。またあ
る人は、責任感や正義感を持って行っていると思いま す。
その理由はどうであれ、それは人がする仕事の中でも、間違えばとても危険な
ものですし、健康に支障をもたらすものです。しかし、誰かが行わ なければな
らない仕事です。
危険な仕事に携わる人たちは5次、6次の下請けの人たちだそうで、労働条件
も決して良いものではありません。どうか、そこで働いている人 たちを守って
下さい。また日本に憐れみを施して、一日も早く収束されますように。そこで働
く一人一人に、神様の憐れみが下されますように。
彼 らがしてくれている一つ一つの作業が、大勢の人たちの命を生かし、守るこ
とにつながっています。彼らのおかげで私たちは、今、生かされていま す。ど
うか彼 らに特別な恵み、祝福、保護を与えて下さい。彼らに感謝している人た
ちがいることを、彼らが知ることができますように。
「主は言われた、『もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その
人々のためにその所をすべてゆるそう』。….(中略)アブラハムは 言った、
「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしはいま一度申します、もしそこ
に十人いたら」。主は言われた、「わたしはその十人のために 滅ぼさないであ
ろう」。(創世記18:26,32)
イエス・キリストの生涯-38
イエス・キリストの生涯-38 聖書の基本4 https://ichthys.com/4A-Christo.htm ロバート・D・ルギンビル博士著 j. 最後の過越の祭り<ii>: 十字架につけられる前の最後の一週間に関して聖書は、ベタニヤでマリヤがイエスに油を注ぐことから始まり(すなわち、ヨハネ12章1節の「6日間」)[1]、そこに起こるほとんどすべてのことは、イエスがこの初降臨の最終段階を通して弟子たちに予告しようとしてきた本質的な真理を前もって示す役割を果たしています(例えば、マタイ16章21-26節,...