つながっている人々のために (2013年2月 ひとしずく1099)
私のある友人は、遠い第三世界の子供たちに対する熱い愛に、いつもかき立てられています。彼女の彼らに対する伝道の思いは、何十年も燃え続けて います。
日本にいるために、自らそれら貧しい子供たちに接することはできないものの、生活費 を節約し、それを子供たちの福利のために送っています。
私たちは、世界中の人たちとつながっていると言えると思います。確かに現代は、この 発達した情報社会にあって、世界のあらゆることを知ろうと思うならいくらでも知ることができます。テレビやインターネット、図書館 に行けば本がありますし、また世界中あちこち旅行している人たちから現地の話を聞くこともできます。
しかし、いくら世界中の色々な情報を知ったとしても、特に助けが必要な人々についての情報を知ったとしても、そのことに対して無関心でいるなら、 何かの行動に駆り立てるほどの意味あるものにはなりません。
神様は私たちにいつも深い関心をもって下さっています。その愛ゆえに、一人子イエス様を、私たちのために送って下さいました。イエス様は、その父である神と私たち人間との和解のために、十字架で命を捧げられました。 私たちは、イエス様が万物の和解のために自ら、どんなところにでも出かけて行かれるという彼の愛の行いに目を留めることが必要かもしれませ ん。
「神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ、そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼に よってご自分と和解させて下さったのである。」(コロサイ1:19、20)
イエス様は、九十九匹の羊を残して、失われた一匹を見つけに行かれる方です。その一匹は、自分の間違いのために迷っているのかもしれません。しかし、その理由が何であれ、助けが必要であるというその事実に、良き羊飼いである 方の心は突き動かされるのです。
「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つ けるまでは捜し歩かないであろうか。」(ルカ15:4)
イエス様は、全世界の罪の購いのためのそなえものとなられたというのであれば、主にとっては、全ての人、全宇宙が彼の愛の対象であり、また贖いの対象であるはずです。そしてイエス様の愛のフォーカスは、病んでいる人たち、病んでいる世界に向けられているのではないでしょうか。
そ のイエス様の御心を見つめているなら、私たちは、身近にいる人はもとより、日本のどこかの片隅で起っていることや、遠い世界の果てで起っている出来事に対してさえも、無関心ではいられなくなるのだと思います。
イエス様の心は、助けを必要としているそれらの人たちのためにうずいています。
将来の希望を失っている人々、今も、原発事故の収束のために、 非常に悪い労働条件で働かざるを得ない作業員の方たち、また仕事を失って収入源が断たれた人たち、また、人からほとんど理解してもらえない状況に置かれている 人たちの心にイエス様の心は惹き付けられています。また、食べ物もなく飢え渇いている人々、戦渦に巻き込まれている人々のためにも、イエス様の心は張り裂けんばかりに痛んでいるに違いありません。
私たちは、主の心を知れば知るほど、私たちの心と霊も造りかえられて行きます。そして、主の関心事が私たちの関心事になっていくのです。
主が心痛めていることに関して、少しでも主の手となり足となることができるように、 またそれが出来ない場合、せめて一日のうちのわずかな時間でも、そのために祈りを捧げられるように、祈りたいと思います。私たちと繋がっている人々のために。
「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」(第二コリント3:18)
「王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。
あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、 旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、 わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着 せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの 兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。(マタイ25:34-40)