十字架を負って生きる

十字架を負って生きる (2013年2月 ひとし ずく1098)

 いったい自分は、どんな目的のためにこの地上で生を受けたのだろうか?

イエス 様は、「日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」と言われたけれど、自分の十字架とはいったい何なのだろう?

これは全てのイエス様に従おうとしている人が心のどこかで抱いている疑問であると思 います。

「それから、みんなの者に言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきな さい。
 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。』」(ルカ9:23,24)

 主は、「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、私のために自分の命を失う者はそ れを救う」と言われました。しかし、「自分の命を失う」というのは、神の御心を思わない自分の利己的な思いに対して死ぬことであって、自分の 体を橋から落として死になさいということではありません。
 それは、自分を否定して主と他に仕えなさいという意味であり、そのように日々死ぬためには、日々生きていかなければなりません。

聖書にも、神に与えられた使命を果たすために、日々自分の十字架を負って生き延びた 人たちのことが書かれています。


 「ヘロデ王がイエスを殺そうとした時、ヨセフとマリアは、生き延びるために、エジプトに逃げた」(マタイ2:13-15)。

 預言者エレミヤはイスラエルの民がバビロンの攻撃に遭って、全滅しないように、バビロンのくびきを負って生き延びなさいと神様の言葉を告げ ました。荒れ果てた故郷を捨てて、敵国のくびきを負って生き延びなさいと。

「わた しはユダの王ゼデキヤにも同じように言った、『あなたがたは、バビロンの王のくびきを自分の首に負って、彼とその民とに仕え、そして生きなさ い。どうしてあなたと、あなたの民とが、主がバビロンの王に仕えない国民について言われたように、つるぎと、きき んと、疫病に死んでよかろうか。』」(エレミヤ27:12,13)

 ではイエス様はどうなのでしょう?イエス様の十字架とは実際その体を死に渡されることでした。しかし、イエス様は、その時が来るまでは、 御自分を殺そうと狙っている宗教家たちの手を逃れて生き延び、福音を宣べ伝え、病んだ人々に触れていやし、弟子たちを教え、貧しい人々と共に おられたので す。


 「パリサイ人たちは出て行って、なんとかしてイエスを殺そうと相談した。イエスはこれを知って、そこを去って行かれた。」(マタイ12:14,15a)

 「イエスはガリラヤを巡回しておられた。ユダヤ人たちが自分を殺そうとしていたので、ユダヤを巡回しようとはされなかった。」(ヨハネ7:1)


 「そこで人々はイエスを捕えようと計ったが、だれひとり手をかける者はなかった。イエスの時が、まだきていなかったからである。」(ヨハネ 7:30)

 「イ エスが宮の内で教えていた時、これらの言葉をさいせん箱のそばで語られたのであるが、イエスの時がまだきていなかったので、だれも捕える者が なかった。」(ヨハネ8:20)
 
 それぞれが、神様から頂いている大切な使命があります。各自が十字架を背負うように導かれています。
 イエス様は、自分の務めが何であるか知っておられました。イエス様だけしかできない務めがありました。その務めとは、御自分の命を全ての人 の罪の贖いのために捧げることでした。そしてイエス様はその務めを全うするために、生きられたのです。

イエス様の命を狙っている者たちは、弟子の一人であったユダが裏切るまではイエス様 と弟子たちがどこにいるか知ることはできず、捕らえることはできませんでした。 しかし、時至ってイエス様は、ユダの裏切りによって敵の手に渡されるのに任せられ、ついに十字架上でその使命を全うされたのでした。

それぞれに自分の十字架があります。ある人は、福音のために命を捧げるという十字架 を負っているかもしれません。またある人は、マリヤやヨセフが、赤ん坊のイエス様を殺そうとするヘロデの手から逃れたように、子の命を守り育 てることが、日々背負う十字架なのかもしれません。
 それは各自にイエス様が備えて下さった道です。

イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、命である」と言われました。(ヨハネ14:6)

イエス様が私たちのために備えられた、奉仕の道こそ、真理による自由の霊であり、周 りに命を豊かに分け合う喜びにあふれたものだと思います。

私たちは主のものです。生きるにしても死ぬにしても、全ては主のためであることを忘 れずに、主を仰ぎ見つつ、日々自分の十字架を負って生きていけますように。

「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生き るにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。」(ローマ14:8)

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