愛の胸に抱かれて

愛の胸に抱かれて (2013年2月 ひとしずく1094)

赤ちゃんは母親の腕の中に抱かれて育つ。

泣き叫 ぶことしかできない赤ちゃんは、

一方的 に与え尽くしてくれる母の愛に

自分の 生存そのものを委ねている。
あらゆるものが与えられても、

愛に恵 まれなかった赤ちゃんは、
生きることはできない。


「母なる大地」という言葉がある。

私たち は恵みに満ちた自然に取り囲まれている。

赤ん坊 が母親の愛に抱かれて育つように

人は自 然に抱かれ育まれている。

太陽の 暖かさが力を与え、風雪の厳しさが鍛えてくれる。

この大 地がなければ人は生きていけない。


しかし人は、その母なる大地を汚してしまった。
神様が私たち人間が生きて行けるようにと

愛をこ めて与え備えて下さったこの大地を。

聖書に は、被造物全体がうめき苦しんでいるとある。

突き放 され、捨てられて当然と思える自分
厳しい自然の摂理の中で死に絶えて当然の自分が見えてくる。
どうして生きているのか、生きていていいのか。

しかし 厳しい時、つらい時の後には、

やはり まだ暖められ、生かされている自分に気づく。

そうし た一方的な神様の恵みと愛に自分はふさわしくはないのに。

神様ご自身が、人の罪ゆえに、

身代わ りとなり、神様ご自身の心が引き裂かれた。
なぜ、神様のひとり子が

十字架 にかからなければならなかったのか。

それ は・・・

神様の 愛を受け入れることができない私たちを

神は 知っておられたので

その愛 を証明するために

引き裂 かれた御自分の体をもって、示して下さった。
私たちは、その神様の御胸に抱かれている。

本当に 愛して下さっている方の愛に、身を委ねている

そし て・・・・その無条件の愛の中で生かされ、

今度は 私たちが愛する者として育っていく。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためのあがないの供え物として、御子をおつかわし になった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互いに愛し合うべきであ る。」 (第一ヨハネ4:10,11)

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