誰のためにしているのか?

誰のためにしているのか? (2013年2月 ひとしずく1091)

 こんな話を読んだことがあります。

それはイエス様とペテロのお話です。

「ある時、イエス様が弟子たちに言いました。『さあ、石を拾って、私について来なさい』

弟子たちはそれぞれ思い思いの石を拾いましたが、その中でもペテロは誰よりも小さな軽い石を拾ってイエス様について行きました。お昼頃になるとイエス様は、「ではこの辺りでお昼を食べることにしよう。さっき拾った石を取り出しなさい。」と言いました。見ると、弟子たちが拾って運んだ石はパンに変わっていました。ペテロは誰よりも小さなパンを食べ、少し不服に感じました。その後、またイエス様が「石を拾いなさい」と言われました。ペテロは今度は誰よりも大きな重い石を拾い、それを担いで汗だくになってイエス様について行きました。大きな期待をもって・・・。

しかし、ある川のほとりまでくると、イエス様はこう言われました。「さあ、さっき拾った石をこの川に捨てなさい」と。何とヘトヘトになって運んだ石は、ただ捨てるためだけの石だったのです。

弟子たちは運んだ石を皆、川に捨てました。ペテロは大いに不満でした。何のために苦労して一生懸命運んだのだ・・・。

すると、その不平な気持ちを見破られたイエス様は、ペテロにこう言ったのでした。

『あなたは一体誰のために、誰を喜ばせるために、それをしているのか?』と。」

このイエス様の問いかけに、ドキッ!としない人は、おそらくいないことでしょう。私は、この憐れなペテロを誰が笑えるだろうかと思います。

私たちクリスチャンは常に主の御旨を思い、主に喜ばれることをするように心がけてはいるつもりでも、それがいつしか主の御心から脱線していることがあります。時に私たちは、主が祝福しようと思われているのに、軽石を運ぶような軽い代価で済ませようとしたり、あるいは自分の益のために重い石を運ぶような時があるのではないかと思います。そして、その自分のしていることに気がつかないでいるのです。そんな時には、このイエス様の問いかけに耳を傾け、自分の思いと信仰を吟味してみると良いかもしれません。

「あなたは一体誰のためにそれをしているのか?誰を喜ばせようとしているのか?」

それがイエス様ではなく自分であるなら、このペテロのように、自分の期待通りに行かない時、不平不満でいっぱいになってしまうことでしょう。逆にそれがイエス様のためであるなら、その結果がどうであろうと、主の喜びで満たされているのではないかと思います。

他の投稿もチェック

被災の中の希望

被災の中の希望 昨夜、勝利に酔いしれたキリスト者の集まり(近所のクリスチャンの若者の信仰の旅の報告--あとで分け合うことができるかと思います—この集まりの間中、雷が鳴り稲妻がしょっちゅう光っていました)が終わり、解散して戸を開けると、何と道の上を泥水の激流がありました。短い距離でしたが、歩いていくには大変な流れだったので車に乗って帰ってもらいました。その後、あふれる沢の流れを堰に誘導するため、コンクリートブロックや土砂で流れた石で、道路に流れないようにしていたら、そこに息子がやってきて助けてくれました。...

主が共におられた

主が共におられた 最も尊いものが、時間をかけて暗い中で生成されるという自然の法則には、たくさん学ばせられることがあります。 ジャガイモをそろそろ掘り出すころになりましたが、何日もかけて土の中で大きくなりました。明るい陽射しにさらされていたら、青くなって食べることができなくなりますので、しっかりと土の中に埋められているように見届けておかなければなりません。ジャガイモ一つとってもそうですが、鶏の卵から出てくるヒヨコも受精した後、卵の殻の中で二十日程温められていなければなりません。...