命 を頂いて生きる (2013年2月 ひとしずく1090)
先日のNHKドキュメントで、今、荒れ果てている日本の山里につ いて取り上げていました。それは人が踏み入り過ぎて荒れたのではなく、逆に踏み入らなくなったことで荒れてしまったということでした。
「自然を大切にするということは、自然に何も関与しないということではない」と、狩猟文化 を再び取り戻そうという動きを起こしている人たちが言った言葉が印象的でした。
自然保護、動物愛護というスローガンのもとで、イノシシや鹿、熊の捕獲、またそれらの肉を 食用にすることなどから敬遠するようになっていたということも理由で、日本には、ハンターがとても少なくなっていて、以前、50万人が狩 猟免許を持っていたのが、今は20万人以下に減ってしまっているということでした。 しかも、その20万足らずの人たちのほとんどが高齢者で、日本には、野生の動物を仕留めることのできる人たちがいなくなってしまっている ということでし た。 その結果として、畑は増えた鹿や熊などの野生動物に荒らされ、山の草木も荒らされて、山は土砂崩れが起るようになってし まいました。そうした被害が全国的に広がっているということでした。
以前は、狩猟する人や、また山林を間伐する人が山の中に入って、動物と人間がもっと良いバ ランスを保っていましたが、今は、人間が山を放棄してしまったために、山は荒れてしまっているのです。
この話を聞きながら、創世記の次の言葉を思い出しました。
「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造され た。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治 めよ」。 神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与 える。これはあなたがたの食物となるであろう。また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。 神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。」(創世 記1:27-31)
これは神様が人を創られた時に言われた言葉です。神様は、人間にすべての生き物を治めよと 御命令されました。人は、自然の一部ですが、同時にまた、治める、つまり管理するという責任を神様から与えられているのです。
また創世記9章には、ノアが洪水の後、箱船から出てきた時のことが書かれています。
「神はノアとその子らとを祝福して彼らに言われた、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ。 地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、す べて生きて動くも のはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。』」(創世記9:1-4)
神様は、生き物の肉を食べてよいと語られました。つまり、神様は、人に植物も動物も食べても良いと語られたのです。もちろん、それはむやみやたらにという わけではなく、神様が与えて下さったものを感謝して頂くという態度が必要であることは言うまでもありません。また動植物だけではなく、山 の木々も好き放題に伐採しても構わないということではありません。しかし、その逆に全く自然を放置していても良いということもないので す。
神様は草木も動物たちも、愛の内に人間に与えられました。その私たちが自然を汚染したり、 むやみに伐採したり、動物たちを乱獲したりすることは、与えて下さった神様の心を痛めることでしょう。また同時に、神様が、私たちがそれ を楽しみ、またそれから命を得るようにと与えられたものを感謝して頂かないことも、与え主である神様の心を悲しませることになるのだと思 います。その神様の愛に応えるのは、やはり、それらの与えられたものを感謝して頂き、大切に管理していくことなのではないでしょうか。
考えてみると、私たち人間の生命は、他の生き物の命を犠牲にして、支えられているのです。 それらの動植物たちに心から感謝したい気持ちです。
さらに、それらを与えて下さった主御自身は、私たちを霊の内で生かすために、御自分の命 を私たちに与えて下さったのです。私たちは自分の罪の内に死んでいたのですが、罪から解放されるために、主は御自分の命を横たえてくだ さったのです。
そして主の御言葉は、今も私たちの霊の糧となり、私たちを生かし続けて下さっているので す。私たちの命は、なんと尊い命で支えられているのでしょう?
一日たりとも無駄に過ごすことなどできません。
このNHKのドキュメンタリー番組 を見て、改めて神様の愛の深さと、その愛に応えるべく私たち人間の生き方というものについて考えさせられたのでした。
「わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろ う。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である・・・ よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、 わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。 生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるで あろう。天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろ う」」。(ヨハ ネ6:51,53-58)