主は祈りを待っておられる (2013年2月 ひとしずく1086) 頭の中で漠然と思っている願いと、祈りの言葉をもって、神様にお願いすることとは違うと思います。 私は昨日、あるメッセージをまとめる必要がありました。しかし、それは私にとってはとても困難で大仕事に思えるものでした。 こういう時私は大抵、ただ悶々としてしまったり、取りかかるのを後回しにしてしまったりします。しかし、今回は違いました。昨日のひとしずく、「祈りの力」の引用句に力づけられて、ああ、できない、と逃げてしまうのではなく、祈りの力に頼ることにしたのです。祈りのパートナーに祈りのリクエストを送って祈ってもらい、私自身も奇跡を期待して、思いと体をしつけて、まず静まり、祈りを言葉にして主にお願いしました。思いが導かれるように、また書くべき言葉を主が与えて下さるように、と。 すると主は、その祈りに応えて、私にその言葉を与えて下さったのでした。素晴らしいです。まだ不十分と思える箇所について、さらにもっとクリアに示してくれるように祈ると、やはり主は答えて下さいました。自分の力ではないとはっきりわかりました。 私は、全能の主が、こんなちっぽけな自分を助けて下さったのだとわかって、嬉しいというか、幸せな気分になりました。自分一人では決してできなかった大仕事を、突然現れた助け手たちの力によって、あっという間にやり終えることができたような感じで、本当に主に感謝したのでした。 もし、イエス様にお願いしなかったら、もう一日、さらに一日と、いつものようにだらだらと、この仕事を延期してしまっていたことでしょう。主に尋ね、助けを求めることは本当に割に合います。 私たちは、もっともっと、この祈りに頼って生きるべきなのだとつくづく思いました。 しかし、それが出来ないでいるのは、もしかしたら私たちは、こんなことを主にお願いしても良いのだろうかとか、あまりにも色々なことをお願いし過ぎて、主にうんざりされてしまうのではないかと、考えてしまうからなのかも知れません。それが祈りに対する信仰を妨げてしまうのです。 しかし主は、私たちがお願いし過ぎて、うんざりするような方ではありません。むしろ、私たちのことを愛して止まない主は、私たちに「求めなさい」と言っておられるのです。 主は、与えたくてたまらないのだと思います。そして祈りに答えたいし、どうしてもっと求めないのか、と思っておられるのではないでしょうか? 主は御心に適ったことであるのなら、何でも私たちの願いを叶えて下さいますし、そうされたいのです。 主は、権威を楯にとるような王ではありません。そんなことまで、求めるとは何と図々しいのか、などとも言われません。なぜなら主は、私たちを僕ではなく、親しい友、恋人のように思っておられるからです。 その親友や恋人の願いに応えたい、そしてもっと甘えてほしいとさえ、主は思っておられるのだと思います。その愛を信じて、憚ることなく主に近づき、心の願いを打ち明けようではありませんか。 主はあなたのことを、あなたの祈りを待っておられます。 「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない・・・わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。」(ヨハネ15:13,15) 「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。」(ヨハネ16:24) |
イエス・キリストの生涯-22
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