キリストの体 パート2

キリストの体 パート2 (2013年2月 ひとしずく1079)

「あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。」(第一コリント12:27)手には手の苦労があり

足には足の苦労があり

背中には背中の苦労があり

目には目の苦労がある

他の肢体には、理解されない痛みを

それぞれが持っている

足の苦労を手には理解できず

手の苦労を背中が理解することはできない

それぞれの必要とするものも違う

手のあかぎれに塗るクリームと

足の筋肉痛をおさめる湿布薬

目の充血を和らげる目薬

それぞれを覆うものも違う

頭は帽子、手は手袋、胴体は服、目はメガネ

それぞれは異なったそれぞれの世界に置かれている

造られた様が違い、視点が違い、働きが違い、必要が違う

互いのために、自分の召しを果たし、互いを支え合う

左手が痛めば右手がカバーする

目や耳などの仕事は、他の肢体には代わることはできないけれど

弱くなった肢体をカバーしつつ、その目標に向かって突き進む

私たちもそれぞれがイエス様の体のどこかの肢体

どの肢体も偉くはなく、また劣ってもいない

ただ、一つの体として、一つの思いをもって

イエス様に用いられるだけのこと

比べ合わず、互いを支え、協力し合って進むのみ「からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。主は一つ、信仰は一つ、バプテ スマは一つ。 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。しかし、キリストから賜わ る賜物のはかりに従って、わたしたちひとりびとりに、恵みが与えられている。」(エペソ4:4-7)

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