キリストの体

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2024年2月5日

キリストの体 (2013年2月-ひとしずく1078)

  昨日は私の誕生日でした。ちょうど昨日の朝、夜行高速バスで、東京から秋田に帰ってきて、家族が私の誕生日を祝ってくれました。そして友人たちからの暖かいメッセージやプレゼントも頂きました。

私は、自分の人生を改めて振り返ってみて、つくづく思いました。私一人では、とてもここまで生きて来ることはできなかった・・・と。一人の人間が生きているというのは、その人を生み出してくれた人、教え育てた人、共に学び、共に生きている人、友人、その他、色々な人が関わっています。

  そして、自分を取り囲むこれらの人々を通して、神様は愛を示し、支え、また成長させようとして下さっているのです。そのうちの誰か一人でも欠 けたなら、今の自分はないのだと思います。

私は、これらの人々と、一つの体となって結ばれているように感じています。

  聖書は、私たちはそれぞれの肢体で、それが集まって一つの体が成り立っていると言っています。ある人は 目、ある人は口、ある人は手、足、指、爪、髪の毛、心臓、胃腸、皮膚、背中・・・というように、それぞれ、していることは全く異なるかもしれ ませんが、皆神様から頂いた役割を担っています。そしてそれと同時に、そのそれぞれの肢体は、他の肢体があるお陰で、生かされ支えられているのです。これとこれと何の 関係があるかと思えるほど、役割が全く異なっていていても、皆一つの体としてつながっているからです。

  自分の誕生日にあたって、私は、キリストの体を形成している兄弟姉妹たちの存在を、心から神に感謝し、この聖書の言葉の意味を想いました。

「実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。もし足が、わたしは手ではないから、 からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。

そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。

もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。

目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。 そうではなく、むしろ、からだ のうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう 見よくする。 麗しくない部分はいっそう麗しくするが、麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えに なったのである。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。

もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。

あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。(第一コリント12章14-27節)

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