主の恵みに助けられて (2013年3月 ひとしずく1077)
二週間ぶりに、秋田に帰る時が来ました。
秋田を出発した日のことを思い出します。早朝、まだ暗い雪道を17歳の息子が私の荷物を持って最寄りの無人駅まで見送ってくれました。重いカバンを引きずりながらの雪道で、思うように急いで歩けず、予定の電車を乗り遅れてしまいました。朝の5時、息子は心配してくれましたが、彼はこれから家に帰れば雪かきの仕事が待っているので、私は大丈夫だからと言って、息子を帰らせました。その息子の後ろ姿を見送りながら、祈りました。「主よ、私が留守中、どうかあまり雪を降らせないでください。」と。
こんな若者の肩に、自分の家の雪かきだけではなく、近所のお年寄りの家の雪かきの仕事まで、かかっているかと思うと、そう祈らざるを得ませんでした。
そして主は、私の祈りに応えて下さったのでした。昨日、秋田にいる妻が電話で「めずらしく、この二週間というもの、雪があまり降らず、降っても、温度が高くて、どんどん溶けて、道路は地面が出ているし、屋根にもほとんど雪が残っていない」と教えてくれました。本当に主の憐みに感謝です。
ところで、今回の秋田への帰りは、東京から出ている秋田行きの夜行高速バスで帰ることにしました。そして東京に行くのに、やはり那須から高速バスで行くことにしました。しかし、今回もまた、色々用事を済ませていたら、その高速バスに乗り遅れそうになってしまったのです。時間管理のできない自分に、またかと思ってがっかりしましました。
とにかくバス停に向かって、重い荷物を抱えながら必死に走りました。しかし、心臓が破裂しそうで、あーダメだ。これ以上走れない、と思い、焦りながらもあきらめて歩くことにしました。そしてある電車に遅れそうになった時、電車が出発しないように祈ったところ、乗り込むまで出発しなかったという話を思い出しました。
私も、主の奇跡にすがる必要がありました。それで祈りました。
「主よ、その同じことを、私にもして下さいませんか?こうした事態にあるのは自分の責任です。ごめんなさい。でも、今あなたの憐みが必要です。どうかそのバスを遅らさせて下さい。私はもう走れません。イエスの御名によって、祈ります!」
やっとバス通りに出ると、遠くにバス停が見えてきました。バス停近くに乗用車が止まっていて、バスに乗る人が、その見送りの車の中でバスが来るのを待っているのがわかりました。バスはまだ来ていないようです。
「あー、主よ、私はもう走れませんから、バスが今現れませんように!お願いします」私はそう祈りながら、最後の力を振り絞って歩き続けました。そしてついにバス停に到着したのでした。時計を見ると、予定時刻をもう3分過ぎています。ふー、と肩を降ろして、遠くを見ると、ちょうどバスがやってくるのが見えました。
「あー、主よ、感謝します!」
またしても私は、主の憐みに助けられたのでした。自分はこうした助けを受けるにふさわしくないのはわかっています。自分の愚かさや、弱さをいつまでも引きずっている自分に、時々嘆かわしい気持ちになってしまいますが、主は、恵み深く慈しみ豊かです。「恵み」は自分がふさわしいからもらうものではありません。ふさわしくないのに、憐れみのうちに頂くから「恵み」なのです。しかし、その「恵み」を頂くにはやはり条件があるのだと思います。それは求めるということです。私たちの日常生活では、求めないから受けないという時が多々あるのではないかと思います。
天候であれ、バスを遅らせることであれ、主は、御心であれば、どんな事態にも介入され、不完全なこんな私にも、その慈しみと憐れみを豊かに示して下さるのです。
主の御名がほめたたえられますように!
「主よ、あなたのあわれみをわたしに惜しまず、あなたのいつくしみとまこととをもって常にわたしをお守りください。」(詩篇40:11)
「わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。」(詩篇23:6)