傷つけても、包んでくれる神

傷つけても、包んでくれる神 (2011年のクリスマス ひとしずく665)

 今日、ボランティアの人たちがあまり行かないという場所に、主に導かれて行っ てきました。幸い土曜日だったので、仮設住宅には子供たちや若者たちが結構いて「クリスマスプレゼントでーす!」と言うと、顔を輝かせて喜ん でくれました。
 そして「おーい、クリスマスプレゼントだって!!」と言って、奥にいる家族を 呼んで、
皆で、とても深いお辞儀をして感謝してくれたのでした。
 
  この仮設住宅に到着するまでの道沿いには、今まで行った被災地の中でも、特にひどい津波の爪痕が深く残っていました。海岸線を走っていると、 片側には、か つて建物があったであろう家の基礎だけが残っていたり、壁がなくなり柱と屋根だけとなった建物も幾つも見かけました。どの家屋も住める状態で はありませ ん。かつて漁港にそって存在した集落には今は、人が一人もいないのです。
 道のもう片側には、海がキラキラと太陽の光を受けて輝いています。穏やかなそ の海の様子からは、大勢の人たちや家屋を一瞬にして呑み込んだ獰猛さは、なかなか想像できません。
 その海を見ていると主がこう語りかけているように思えました。「波にのみ込ま れた人たちは、キラキラ輝く天国に先に連れていってもらったんだよ。彼らは安全な場所、平和と喜びと栄光の場所に行ったから心配ないんだよ」 と。
 
 主はその知恵とご計画によって、大勢の人を天国に連れ帰られることを良しとさ れました。私たちは、その主のなさることに疑いを投げかける必要はありません。主は、全てを知っておられ、最善のタイミングでそれをなされた のです。
 そして主は明らかに、地上に残された人たちに、たくさんの慰めと励ましを送っ ておられるのを感じます。
 その海の美しさに、町の人々はどんなに慰められていることでしょう。また仮設 住宅に住む人たちへの、色んな人たちからの支援もあります。
  私が行った仮設住宅の扉には、ボランティアの人たちが作ったらしきクリスマスリースが飾られていました。そして、私がマフラーを差し上げると 「よかった。 帽子はもらってあるんだ。」と言っていました。また家の玄関には炭で焼いて苗字を浮き立たせた素敵な表札が掲げられていました。 
 あまりボランティアの人が来られない場所とはいえ、主が慰めのために送られた 人たちが幾人もいたことが伺えました。主は、きっと大勢の人たちを使われたのでしょう。

 悲しみがあるから
 慰めがある
 傷があるから
 癒しがある
 一人ではできないから
 助け合いがある
 欠乏があるから
 受ける喜びがある

 私たちの心を豊かにしてくれる
 悲しみと
 欠乏と
 別離と
 傷と…

 それが神様の手の内に
 計画され
 起こることが許されたのなら
 
 きっとそこには
 慰めと
 供給と
 癒しと
 再会と
 赦しが
 あるに違いない

 「彼(神)は傷つけても、包み、打っても、その御手で癒してくださる」(ヨブ 5:16 新共同訳)

「永 遠の真理の新しい、実りゆたかな種子がわれわれの心に落ちて、そこに根をおろすことができるには、その前に不安という鋭い、深く切り込む犁 (すき)の刃 が、われわれの心のあとからあとから生じる硬い殻を、いくども切り開かねばならない。このような過程を経ていないと、実際に人生の根底にある 本当に真実なものに対 していつまでも無感覚でいるであろう。われわれは多くの人生経験をつむことによって、全く苦難のない生活をもはや願わないという心境に達す る。これが『永遠の平安の状態』である。この地上では、苦難こそがわれわれの悪い性質からわれわれを守ってくれる、われわれの変わりない番人 である…」(「眠られぬ夜のために 第一部」八月三十一日 ヒルティ著)

他の投稿もチェック

誰 の声に従うのか?

ひとしずく1557-誰 の声に従うのか? ある人が、クリスチャンではない 友人たちに自分の悩みを相談し、その友人たちの言う通りに行動した結果、その結果が結局自分の望んだこととは反対のことが起ってしまった ことを非常に悔やんでいました。自分はそうは思っていなかったのに、友人たち皆が口をそろえて同じ事を言うので、自分もいつしか彼らと同 じ気持ちになってしまっていたということでした。今思えば、その決断は主の見方、やり方ではないし、自分の本心でもなかったと、寂しそう に言っていま した。 私たちはよく、神を恐れるよりも...

聖書の中の偉人たち

ひとしずく1556-聖書の中の偉人たち  有名な人の生涯を見て、その数々の偉業に、凄いなという印象と圧倒される思いを抱く事があります。しかし、そこからいくらか学べることはあるものの、励ましを受けるより、自分にはそんなこと、とてもできそうにないとがっかりしてしまう場合があります。  反対に、偉大な人たちの失敗や罪を見る時、こんな偉大な人でも罪深いところがあり、それにも拘わらず、神様は彼らを赦し大いに用いられたのだとわかると、とても励まされるのではないでしょうか。もしかしたら、自分にも希望があるかもしれない、と。...

聖 書に書かれている農業

ひとしずく1554-聖 書に書かれている農業  先日、創世記を読んでいて、一つ発見がありました。それは、人はエデンの園に置かれた時、神様から園を耕すようにと言わ れていたことで す。私はずっと、畑を耕すことは、アダムとイブが罪を犯して、エデンの園から出されてから神様から課せられた仕事だと思っていました。しかし創世記2章に は次のように書いてあります。  「主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。」 (創世記2:15)...