必ず受け取るという信仰 (2011年8月配信 ひとしずく549)
主は、ただ与えようとしておられたのだと思います。私達は、今回の東松島市の方々の軽井沢キャンプのために、何もない状態で、必死に祈り、ただ信仰によって一歩一歩を踏み出してきました。それによって主は、各施設やレストランの責任者の人たちの心に働きかけて下さいました。この聖句のように。
「王の心は、主の手のうちにあって、水の流れのようだ、主はみこころのままにこれを導かれる」(箴言21:1)
主は、私たちの祈りに応えるために、よく人を使われます。天使や超自然的な事象を通して、応えることもできますが、普通、人の心に触れてその思いを動かされることによって、応えられるのです。
主は、「さあ、受け取りなさい。あなた方が求めたものだ」と手を差し出して、私たちに与えて下さいました。そう、主はいつも手を差し伸べているのです。その手から受け取ろうとしないのは、私たちの信仰の欠如なのかも知れません。私たちは時々、祈り求めても、多分無理だろうと決めつけ、受け取ろうとしないことがあるように思います。ちょうど、雨乞いの祈祷会に日傘を持って参加した夫人たちの話のように。
これは何日も日照り続きで、ある教会で雨乞いの祈祷会が行われることになった時のお話です。雲ひとつない炎天下の中、ある少女は雨靴を履き、傘をもって出席したのでした。その少女の信仰に、日傘をもって祈祷会に来た婦人たちは、たいそう恥じ入ったということです。
妻は、この少女の信仰を持って、施設やレストランに援助依頼の電話をしました。そして、5000人にパンと魚を与えたイエス様のビジョンも見ていました。物事は必ず成されるという期待と、これこれの日にどれだけ必要ですと、具体的に示して、それを受け取る用意をして臨んだのです。しかし、妻が電話をした全ての人が、応えてくれたわけではありませんでした。それは主が恐らく、断られても、主は必ず、他の誰かを通して、与えて下さるはずだと言う、私たちの信仰を試されたのだと思います。そしてついに主は、その信仰に応え、主が用意されていた鍵となる人に、妻を導き、その人を通して、たくさんの必要を満たして下さったのでした。彼は、被災された方のために何 かをしたいという願望を持っていたのであり、主は私たちの必要を満たすと共に、彼の願いをも聞かれていたのです。また聖パウロ教会・フレンドシップのクリスチャンの人たちとの出会いもありました。彼らもやはり、被災された方のために、主の御心を行いたいと願っていた方々でした。主は、主の御心を行いたいと願っている者の全ての祈りを、必ず聞かれる方なのだと、改めて思い知らされました。
神様は確かに存在しており、神様は愛であり、私たちの祈りを聞かれる方です。そして、それを信じているなら、私たちはもっと、主は必ず祈りに答えて下さり、必ず受け取るのだという信仰も持つべきだと思います。主は、私たちの信仰と求めに応えて、豊かに必要を満たしたいと思っておられるのですから。
今回の、主の奇跡の軽井沢キャンプが、今、主の御心を行いたいと思っている方々への、励ましになったように願っています。そう、主はきっと、そんなあなたのためにも、この奇跡を見せて下さったのだと信じています。
何でも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、その通りになるであろう。(マルコ11:24)
そして願い求めるものは、何でもいただけるのである。それは、わたしたちが神のいましめを守り、みこころにかなうことを行っているからである。(第一ヨハネ3:22)
だからわたしたちは、憐れみをうけ、また恵みにあずかって、時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。(ヘブル4:16)
わたしたちが神に対していだいている確信はこうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞き入れて下さるということである。
そして、わたしたちが願い求めることは、何でも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを知るのである。(第一ヨハネ5:14-15)