生きている者の使命 (2011年8月配信 ひとしずく548)
「3:11の地震の時、避難所となった体育館には、大勢の人が集まっていました。ところがそこに津波が襲い、体育館の中は、たちまち水で一杯になりました。力ある者は鉄骨にしがみついたり、上によじ上ることができました。しかし、そこには体の不自由なお年寄りも大勢いました。 水が渦巻いて、まるで洗濯機状態の中で、溺れかけている人を、助けようにも助けることができないでいました。でも、畳がぷかぷかと水に浮いて流れてきました。ある人たちは勇敢にも、その畳の上に乗って、おぼれている人を救助し、奇跡的に助けられた人もいました。しかし大勢の人たちは、渦巻く水に呑まれて亡くなりました。」
これは、先日、軽井沢に来られた東松島の一人の女性が体験したお話です。彼女は体力もあったので、自力で渦巻く水から這い上がり助かりました。 同じ場所で同じ体験をしても、年齢に拘わらず、助かる命と取り去られる命とがあります。それは一体、どういうことなのでしょう?助かった人たちだけが、神に祝福された人たちなのでしょうか?それともたまたま運がよかっただけなのでしょうか?
私たちの肉体は、土から出て、土に返ります。しかし、肉体に宿っていた霊は、死ぬことなく神様のもとに行きます。それは言わば、地上での学年を終えて、次の学年に移っていく卒業のようなものです。そして、その卒業は全ての人にやってきます。ただその日がいつやってくるのか、またどのような卒業になるのかは人に知らされていません。それは神様が定められていることなのです。この震災でも多くの方がお亡くなりになり、人生の卒業を迎え、神様の元に帰郷されました。人の目からしたら、ただ犠牲になって死んだ人と、運よく命の助かった人、という見方をしてしまいがちですが、私はそうではないと思うのです。彼らは神様の定められた時を迎えた人たちであり、生き残った人たちは、まだ神様の定められた時を、迎えていない人たちであるというだということではないかと思うのです。
愛する人を亡くされた人たちは、未だ気持ちの整理がつかず、この現実を受け止められずにいる人も多いことと思います。そして何より悲しいのは、その愛する人が、恐れと、苦しみの内に亡くなり、今もそのような中にいるように感じていることではないでしょうか?御遺体の未だ見つからない御家族のいる方は、尚更のことと思います。そして生前、その人にしてあげられなかったことや、あるいはしなければ良かったことなどを次々と思い浮かべ、後悔の念にさいなまれるのです。 しかし、信じてほしいのは、亡くなられた方々は、生きている私たちが思っているような、惨めで悲しい姿でいるわけではありません。亡くなった瞬間にこの肉体から解放されるからです。ですから、朽ち果てチリに返るように定められている肉体に目を留めないでほしいのです。その中に、愛する者の霊はいないのですから。魂は、地上で肉体という仮の宿を離れ、今では地上より遥かに素晴らしい所にいるのです。彼らは神様の定めた時を迎えたからです。 地上にいる私たちには、まだその時が訪れていません。それは、何故かというと、この地上での使命があるからで、その使命とは、共に地上にいる、周りの人たちに、精一杯の愛を注ぐことなのではないかと思います。腕の中にいる赤ん坊や小さな子供たち、またはすぐ隣にいる誰かや近所の人、友人、職場の人たち、そしてこれから出会う多くの人々に・・・。その中には、魂が試練の渦に呑み込まれそうになっている人もいるかもしれません。その魂に手を差し伸べるために、私たちは生かされているように思うのです。
生きるために選ばれた まだあなたがたの時は来ていないと この世を先立った人の魂は、主よ、あなたの御手に委ねます あなたは彼らの世話をよくして下さる方です だから今日、私たちは、あなたからの務めに心をこめて臨みます。 今日という日は、私たちにとって地上で最後の日であるかもしれません。 卒業の鐘が鳴る時まで、あなたからの務めを立派に行っていたいです。 今も、すぐ近くで渦巻く落胆の淵にあって、自分では這い上がる力がなく、沈んで行く魂があります。 あなたは、渦巻く水の上に、沈める事のできない救命ボートを送られ、 私たちの差し出す手が、届くようにして下さいます。 どうか主よ、今日、私たちに力を与えて下さい。 あの渦巻きの中で、溺れている人に手を差し伸べた人のような、 勇気と力で満たされた愛を。 そして、沈み行く一人でも多くの魂を引き上げることができますように。 これが、今、地上に生きている私たちの使命・・・。 「わが心のくずおれる時、私は地のはてからあなたに呼ばわります。私を導いて私の及びがたいほどの高い岩にのぼらせてください。」(詩篇61:2) 「あなたは私が呼ばわった日に私に答え、わが魂の力を増し加えられました」(詩篇138:3)