人生の卒業と新しい出発点 (2011年3月26日配信 ひとしずく400)
聖書の詩篇91編は災いの中においての励ましであり、神の保護の約束でもあります。その中に「たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない」(詩篇91:7)とい う言葉があります。
実際この聖句の約束通り、奇跡の体験をして災いを免れた人も大勢います。しかし倒れてしまう千人、そして万人とはどんな人たちなの か? ということについて考えてみたいと思います。
神を信じる人たち も、その倒れる千人の中の一人、あるいは万人の中の一人として災いに遭う場合もあります。かつて神を信じていた多くの人々は様々な災害、事 故、病気、迫害などで亡くなっており、また今生きている私たちも同じようになることでしょう。これは神の保護がないからなのでしょう か?
今回の震災で亡くなられた方の数は日に日に増え続け、ついに一万人を超えてしまいましたが、その中には神を信じる人は何人もいたことでしょう。神はどんな状況であっても私たちを助け出して下さいますが、時にはそうでない場合もあるのです。それは「死」という人生の卒業を迎える時です。
その人生の卒業とは、神の御心の時であり計画であり、決して運が悪かったからとか、そこにいなければよかったのに、と言ったようなものではありませ ん。そしてこの神の御心の時に、人生の卒業を迎えるというのはクリスチャンに限ったことではなく、すべての人に言えることなのです。
神はすべてを愛と計画の内に行われます。しかし人間の限られた視点で見ても、なかなか神のなさることは理解できないことも多いと思います。特に、人生は 「死」で終わってしまうものではないという理解の上に立たなければ尚のことです。しかし愛する人を失った方々の、深い悲しみを見る時、このことをぜひ知って頂きたいと、切に思うのです。「死とは地上における人生の卒業であり、次の世界への新しい入学の時である」ということを。
聖書では、この地上での人生について、「あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものである か。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。」(ヤコブ4:14)と語っています。
神様が私たちに下さる永遠の人生に比べれば、地上の命はとても短く一瞬にして無くなる霧のようなものだということです。特に猛威を振るう自然の前には、 人間は木の葉のようにかよわい存在であることを、今誰もが感じていることと思います。
しかし主は、こんな小さくかよわい存在である私たち人間に、とても大きく深い 、恵みと慈しみを持って下さっているのです。亡くなった方々も神の愛する大切な子供たちです。神は、彼らの人生の卒業の日を定められておられ、彼らはその神の御心の時に、卒業したのです。そして地上の体という衣を脱ぎ捨て、新しい霊の体を着て、今はこの地上よりも、はるかに素晴らしい世界に瞬間移動したのです。
ですから、地上にいる私たちは、卒業した彼らのことを心配することはありません。そして私たち自身も自分のこれからの人生について心配する必要はありません。私たちもやがて、神の御心の時にこの人生を卒業しますが、その時まで、つまり生きている限りは、神の恵みと慈しみが伴うからです。(詩篇23)
世界の長い歴史の中で、今まで幾度も幾百万の人々が、災害や悲惨な出来事を経験してきました。そうした、とても立ち直れそうにない悲しみに暮れていた人たちに対して、神はどうして来られたのでしょう。神は彼らに生きるための恵みと慈しみを下さったでしょうか? そうです。私は彼らの人生に「生きている限りめぐみと慈しみが伴った」と信じます。「(神は)試練と同時に逃れる道も備えて下さった」(第一コリント10:13)と信じます。
そしてそうして下さった神は、今も、どう仕様もない悲しみと絶望の内にある方々と共にいて、必ず助け導いて下さると信じています。
亡くなられた方にとっても、生き残られた方にとっても、今は新しい出発点です。
この地上を旅立たれて、この地上の学校を卒業して、次の世という新しい人生へと進まれた方たち、また、まだしばらくの間この地上に いて、たった今様々な変化を通過している国の一国民として生きていくという新しい学年に進む私達も、それぞれ、新しい出発点に立って いるのです。
それぞれが明るい未来への希望をもって、新しい人生の学校、学年を迎えますように、お祈りを捧げます。