いつまでも変わらないもの
「草は枯れ、花はしぼむ。
しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない。」
(イザヤ書 40章8節)
草花だけでなく、形あるものはいつか必ず朽ち果てます。
建物も絵画も、ペットも愛する人たちも、そして自分も。
しかし神様は、はかないこの世にあって、私たちに永遠を思う気持ちを与えられ、私たちが単に目に見えるものの美しさや、それに対する愛着に留まるのではなく、それらを造られた創造主である神へと、思いが向けられるようにされているのではないかと思います。私たちが心ときめかせ、感動して見るもの、また体験するものの背後に、それを与えてくださった神がおられること、そして私たちはその神の愛の内に生かされているということに気づくようにと。
イエス様は、人々に次のように教えられました。
あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
あなたの宝のある所には、心もあるからである。(マタイによる福音書 6章19~21節)
神は、地上のやがて朽ち果てるものにではなく、永遠に朽ちることのない美しいものを見出すよう私たちを導いておられるのです。
もし、この地上のものに心惹かれ、幸せの基盤がそれらのものにあるなら、それを失ってしまったり、朽ち果て変わって行くのを見る時、私たちの心も動揺し、悲嘆に暮れてしまうことでしょう。しかし、それらのものを与えてくださっている神に心が留められているなら、この世でどんなことが起きても、また何を失っても揺さぶられることはありません。たとえ一瞬は揺さぶられるかもしれませんが、揺さぶられ続けて倒れることはありません。
それこそが、状況に左右されることなく、真に人の心を平安で満たしてくれるものではないかと思います。そして、それは誰もが必要としている価値あるものです。
イエス様は言われました。
天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。
(マタイによる福音書 13章44節)
この世のどんなに価値あるものとも全く比べ物にならないほどの宝、それが愛の神の発見であり、自分はこの神の計画のうちに愛をもって造られたのだということの発見、それが神が私たちに見つけてほしい宝なのです。そして、私たちが神に愛されているように、他の人を愛するために生きること、それが天に蓄えることのできる宝なのです。それは人生に、真の豊かさ、愛、自由、喜びと希望をもたらしてくれるものです。
聖書は、人の命だけでなく、やがてこの世にも終わりが来ることを告げています。その終わりの時に起るべき前兆も聖書に記されていますが、今、それが現れ始めています。戦争、地震、疫病、天体の異変、人々が自然の情愛をなくすこと・・・その他にもまだまだありますが、今は終わりの時なのです。
しかし、それは同時に神の国、天国が近づいていることでもあり、それは例えるなら、産みの苦しみ(陣痛)と言えます。
聖書にはこうあります。
実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。(ローマ人への手紙 8章22節))
今、周りを見れば、人間だけでなく、生物、自然、造られたもの全てが、もだえ苦しんでいるのがわかると思います。しかし、聖書はその苦しみは産み(陣痛)の苦しみだというのです。産みの苦しみ–それは、新しい命、新しい世界が生まれるための意味ある苦しみです。
聖書にはこれらの産みの苦しみ、世界の艱難時代の後に、不法が正され悪が一掃され、地には平和が神によってもたらされる時が来るという新しい世界についての預言がいくつも記されています。
そして神は、この新しい世界到来のために、人々がこの世と共に滅びることのないように、御子であるイエス・キリストをこの地上に送ってくださいました。イエス・キリストは神であられたのに、私たちを救うために人間としてこの世に来てくださったのです。
聖書にはこうあります。
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命をためである。(ヨハネによる福音書 3章1616節)
神は私たち人間をどれほど愛しているかを示されるために、御子イエス・キリストをこの世におつかわしになりました。イエス・キリストは社会からしいたげられている人々や病人たちのところに行かれ、人々をいやし慰め、神の愛を示されました。そればかりでなく、全人類の罪のあがないのために、十字架に架かって命を捨ててくださったのです。それはイエス様の犠牲によって、私たちが本来受けるべき罰を受けずにすむためです。
イエス様は、私たち人間が、生まれながらの罪の性質をもったままでは神の国に入ることができないので、その罪を取り去るために、いけにえの小羊となって死んでくださったのです。それは無理強いされてでもなく、仕方なくでもなく、愛する私たちの身代わりとして、自ら十字架への道を進んで行かれたのです。
神であられる方が私たちのために死んでくださいました。これほど尊い愛があるでしょうか。
しかし、感謝することに、イエス様は死んだままではおられず、聖書の預言通りに三日目によみがえり、四十日間にわたり、弟子たちを始め大勢の人たちの前に姿を現され、御自分が復活されたことを示されたのでした。
これはイエス様と三年半、共にいて訓練を受けた弟子達や使徒パウロも伝えている事実です。
パウロの記述にはこうあります。
わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。(コリント人への手紙第一 15章3~8節)
パウロがこの書簡を書いたのは、ここに記されているように復活されたイエス様を目撃した多くの人達がまだ生きていた時代です。もしそれが真実でないのなら、パウロや弟子達の言うことに耳を貸す人は誰もいなかったことでしょう。
イエス・キリストは確かに死からよみがえられました。そして、この事実を受け入れて信じる人々の心の中に住まわれることを望んでおられるのです。
イエス様は神であり、あなたの救い主であり、あなたをこよなく愛する存在です。イエス様は、聖書で語られているように、あなたの心の戸の外に立ってあなたの心の戸を叩いています。
見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。(ヨハネの黙示録 3章20節)
「食を共にする」というのは親しい交わりを意味しています。つまり、イエス様はあなたが神の愛を信じてイエス様を心の中に迎え入れ、共に人生を歩むことを望んでおられるのです。
どうか、今、この短い祈りをして、イエス・キリストを心に受け入れてください。
「イエス様、私の罪をゆるすために十字架で死んでくださったことを感謝します。どうぞ今、私の心の中に入ってください。そして、心の闇をあなたの光で消し去ってください。自分が今まで犯してきた愛のない行為をゆるしてください。また、誰かをゆるせない思い、高慢、嫉妬、自己中心の思い、不平不満、絶望など、自分ではどうすることもできないこれらの思いから解放してください。そしてあなたの愛と平安、喜びで満たしてください。
どうか、あなたと共にこれからの新しい人生を歩むことができますように。そして、永遠の命を与えてください。イエス・キリストの御名(みな)で祈ります。アーメン。」
この祈りを心から祈ったのなら、イエス様は今あなたの心の中に入られました。そして、あなたは霊のうちで新しく生まれ変わり、永遠の命が与えられました。イエス・キリストを信じる人は、この人生の卒業を迎えると、滅びることなく神の御国である天国に迎え入れられるのです。ですから死への恐れからも解放されることになります。
また天国に行くのを待たずとも、今からの人生において、心に天国を持って生きて行くことができます。
イエス様は「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。」(ルカによる福音書 17章21節)と言われました。
私たちが思いの中で、天地を始め、この世界のあらゆるものを造られた神を仰ぎ見て祈り、聖書に書かれている神の言葉に生きるなら、神の国、天国はいつも私たちの心のただ中にあるのです。
どうか、この永遠に朽ちることのないものに目と思いを留めて、新しい人生を、あなたを造られた神と共に今日から生き始められるよう、心からお祈りしています。
イエス様はあなたを本当に愛しています。
終わりに
私は、あの被災地で見た、泥をかぶってもなお美しく咲いていた花たちに、命の輝きを見ました。明日は刈り取られ、炉に投げ入れられて焼かれることになろうとも、ただ自分たちを庭に植えて楽しんでくれた人たちのために一生懸命咲いてくれていた花たち。それは、私たちが愛と自由のうちを歩めるようにと、私たちのために傷つき命を捨ててくださったイエス・キリストの愛の姿に重なりました。
私たちの人生は、この花たちのように、気づかれずに寄り添い続けてくれている様々なものに取り囲まれていると思います。しかし、普段はそれが当たり前だと思ってしまっていたり、気づかないでいます。それを失って初めて、それが、あるいはその人が自分にとってどれだけかけがえのない大切なものであったかということに気づくのです。そして、もっと感謝しているべきだったと後悔するのではないでしょうか。
しかし、私たちがこの人生において気づかなければならない最も大事なこととは、それらの自分が生きるのに必要な全てを与えてくださっている神がおられるということだと思います。あの花のいのちを通して、神はそれを教えようとされているように感じました。
あの庭に彼らを喜ばせていた花たちの姿はもうありません。しかし神の愛は、いつまでも彼らと共にあり、様々な形で、彼らの必要を満たし、励まし続けて行かれるのだと思います。彼らが神の存在に気づくのを待ち望みながら。
2019年12月