明日は炉に投げ入れられようとも
聖書にはイエス・キリストが語られた次のような言葉があります。
きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。
(マタイによる福音書 6章30節)
神がどのような思いで草花を生えさせておられるか、そしてその一本の草花を通して何を私たちに教えようとしておられるのか、考えさせられます。
イエス様は人々の心の中に、神への信頼よりも、生活の心配、不安、思いわずらいのあることを見られました。そしてこの言葉を語られたのです。この言葉の前には次のように語られています。
何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。(マタイによる福音書 6章25~29節)
これは、たくさんある食べ物や洋服の中から、明日は何を食べようか、明日は何を着て行こうか、と迷っているようなことではなく、食べるものにも着るものにも事欠くような状態の中で、明日はどうしようか、生活して行けるだろうか、と心配する人々に対して語られた言葉です。
イエス様はそういった人々に、空の鳥を見なさい、野の花を見なさい、と言われました。鳥や花はどうやって育ち生きて行けるのか。自分で働きもせず、紡ぎもしない。しかし、神はそれらの小さな鳥や野の花、またあらゆる動植物を養ってくださっている。
それはただ、神の恵みによるんだよ。こうした花や鳥にさえ、愛を注いでおられる神が、あなた方のことを世話してくださらないことがあるだろうか、と神が人間のことをどんなに愛しておられるかということと、それゆえ心配しないでただ神に信頼することを教えておられるのです。
人はどうしても、お金や物を持つことで安心を得ようとするのではないでしょうか。目に見えない神に信頼するよりも、目に見える金品に安心を求めてしまうのです。
昔、イスラエルにはダビデの息子であるソロモンという王様がいました。ソロモン王は巨大な富に恵まれていました。人の目から見たら、うらやましく思えたことでしょう。しかし、イエス様は「栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」と言われたのです。
これは、人間が造るどんな立派な建物も、宝石をちりばめた豪華な衣装も、神がお造りになった命あるものの輝きに比べたら、取るに足らない、神によって生かされている命は、それらのものとは比較にならないほど高価で価値あるものなんだよと、イエス様は言われたのだと思います。
野の草の装いというのは、やはり神がデザインされた美しい花にあらわされていると思います。私たちの目は、葉や茎ではなく美しい花に惹きつけられます。それは神がその草や茎に合った花を、輝きをもって装ってくださっているからです。神の愛や思いはこんな小さな命にまで行き届いています。
そうであるなら、私たち人間に対し、神は単に生き延びられるよう世話されるということ以上に、一人ひとり異なる性質を持った私たちを、どんなにか心をこめて、それぞれにあった装いで輝かせてくださることであろうかと思います。
明日は炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。それはこんな小さな野の花にも、神が造られた目的と役割があるからではないでしょうか。
私たちがこの庭で引き抜いた色とりどりの美しい菊、その他にも季節ごとに咲く色々な草花がこの庭に植えられていましたが、それらの花々は放射能を浴び、泥水で覆われた庭に、自らも泥水に浸かりながらも美しく咲き続け、この家の人たちの心を和ませ、楽しませ、希望や励ましを与えてくれました。
この花の美しさを造られたのは神です。そしてその花の美しさに感動する心を人間に備えられたのも神です。たとえ草花たちの最後が炉で焼かれてしまうことであったとしても、それほどまでに深い配慮と計画をもっておられる神が、ただいたずらに人の心に感動を与えた後に無残に取り去って落胆させる、そんな心をもて遊ぶようなことをなさるはずはありません。
この草花たちはそれを良く知っているかのようです。束ねられて、炉に入れられるのを待つ花たち、彼らは神に造られた自分たちの使命、その目的を果たしたことを静かに喜び、神を賛美しているように見えました。