クリスマス、聖霊と共に パート4

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2023年12月15日

クリスマス、聖霊と共に パート4

火をくぐって:

Sさんのところに泊めて頂いた時、Sさんの娘さんAさんがそのお子さんのSho君と一緒にいました。嫁いだ先で家事があったため、一時的に子供を連れて帰って来ていたのです。火事が起こったのは、二歳の子供と一緒にお風呂に入っていた時だそうです。煙がドアの隙間から入って来て、火事だという知らせに、彼女は急いで、服を着たそうです。お風呂場から他の部屋に行こうとしても煙が回っていて、お風呂場の窓から逃げ出したのだそうです。

そして脱出した数分後に、お風呂場にも火が回ったのだそうです。間一髪ということでした。奇跡的な脱出ができたのは、近所の気難しい人として周りの人達から敬遠されていた人のおかげだと言っていました。その人が真っ先に消防署に通報してくれ、家の中にいる彼女に外から叫んでくれて、Aさんがお風呂場にいるということが分かったので、消防隊員がお風呂場の窓の柵を壊して、母子が抜け出ることができるようにしてあげたのです。

速やかな脱出だったため、当時のことを思い出してトラウマになることもないと言っていました。でも、持ち物はほとんど持ち出すことが出来る状態ではなかったと言っていました。

そして彼女は、この世のものにとても依存していた自分に気づかされたと言っていました。この世のものは全て過ぎ去ります。主は、Aさんが世界に及ぶ来たる艱難の時のために、前もって備えるために、こうした試練をゆるされたのでしょう。

神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を(この世に対する執着や依存も)打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、 そして、あなたがたが完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。 (第二コリント10章5-6節)

さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。 (第一ペテロ4章17節)

ねたむほどに私たちの魂を愛しておられる神は、私たちが目覚めて、主に近くあることを望んでおられるのだと思います。主はどのようにしたら、私たちが目を覚ますかを御存知です。そして私たちの中にある、長い間にわたって積み上げられたわだち、妥協の罪が私たちの心と思いの中に要塞として築き上げられているのです。

それを打ち壊すのは、神の介入しかない時がありますが、それを待たずに、聖霊に服従して神の武器である御言葉によって進んで変わることに取り組むことです。<私自身、今年も試され、試練の中を通過させて頂きました。変わり、悔い改めること多いです。自分の罪を気づかせてくださる主を賛美します。>

わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。わたしたちはさまざまな議論を破り…(第二コリント10章4節)

兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。 (ローマ12章1-2節)

霊の戦い:

しかし、御霊は明らかに告げて言う。後の時になると、ある人々は、惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰から離れ去るであろう。 (第一テモテ4章1節)

 今回の旅で、各地で分け合うことになったテーマの一つは、「惑わし」についてでした。パウロは、主の日が来る時には「まず背教のことが起こり」と言いました。「背教」は、信者の間で起こるものです。信者が教えを捨てる、真の信仰から離れ去ることです。

 

 だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。 彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する。 わたしがまだあなたがたの所にいた時、これらの事をくり返して言ったのを思い出さないのか。 (第二テサロニケ2章3-5節)

 できれば選民をも惑わそうとする反キリストの出現を前に、惑わす霊の動きが活発です。パウロは、反キリストの出現についてテサロニケの人達に、「くり返して言った」とあります。

知識 vs 愛:

 惑わしが強いところでは、御言葉にしっかりと根差す必要があります。私たちは、自分たちの先祖以来、善悪を知る知識の木の誘惑を受けてきました。残念ながら、大方の場合、私たちはサタンの策略にはまってしまっていると思います。サタンは私たちの弱みを知り尽くしていて、「神のようになれる」というこの誘いに抵抗できる人はあまりいないのではないかと思います。

その誘惑に抗する力は、ただ主イエスとの愛の絆の強さによると私は思います。

 現代の情報社会では、私たちはどうしても必要な知識を習得する必要があります。それは避けられません。それがこの世の知識であっても、私たちはこの世で生きていく限り、ある程度必要としています。さらに私たちがこの世で生きていくのは、「狼の中の羊」のようなもので、絶えず識別していかなければなりません。しかし神の御言葉の真理に対する愛、真理の御霊である方の私たちに対する愛の絆が、私たちを誤った知識、避けるべき知識の誘惑に打ち勝たせてくれるのです。

 主の私たちへの信頼と愛を裏切ってまで、その禁じられた知識の領域に入ることは必要かどうか、絶えず忠実に見分けていくことは、主への献身と愛であると思います。

 偶像への供え物について答えると、<善悪についての判断について言うなら>「わたしたちはみな知識を持っている」ことは、わかっている。しかし、知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。 もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。 しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのである。 (第一コリント 8章1-3節)

 どうしても神々のようになりたい肉の誇りがあります。それは信心深く祈りをし、宣教に携わっていても、また悪霊を追い出し、力あるわざを行っていてもそうです。

 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。 (マタイ7章21-23節)

 この聖句の前には、人や教えをどのように識別し、判断するかをイエス様が語っておられます。

 にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。 あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。 そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。 良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。 このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。 (マタイ7章15-20節)

 どんな実が結ばれているか、それは愛、喜び、平安などの実をもたらしているだろうか?それとも憎悪、党派心、傲慢、肉の腕を誇るなどに至らせているだろうか?(ガラテヤ5章19~26節)

 詩篇の最初の部分、第1篇、2篇を読んでも、高ぶる者、傲慢な者、見下げる者、へりくだって神のくびきを負う者に対して解放者のようにふるまう者は、ゆくゆくは神の厳しい裁きの下に服することになります。

 しかし、神が負わされた弱さのうちに、主への愛のゆえに、へりくだって歩み続ける者は、ついに報われることになります。(マタイ5章2~12節)

神の家族:

信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。 (ヘブル 11章8節)

 アブラハムは、神よりの自分の召しに応え、神に対して忠実であるために、慣れ親しんだ友、また親族、家族も後に残して進みました。

 主の召しに応えるために、慣れ親しんだものを後に残して進むということが必要な時があります。家族、友、また自分を生んでくれた親、また育ててくれ教師や組織など、後に残さなければならない時が、あります。

 振り返ってみて、私自身も先に進むために、さようならと言わなければならなかった親しかった人達がいます。別に恨んでも、憎んでもいないのですが、ただ私が果たすようにと主が御用意された召しに応えるには、そうする必要があったのです。しかし、その価値はありました。

 今は、主にある兄弟姉妹が何倍にも増え続けています。そして以前にはできなかったチャレンジに満ちたミニストリーがあります。数多くの霊的な発見があるのです。

イエス様ご自身、自分の家族からは理解されず、同国人と言うことになっている人達からは、迫害され殺されましたが、彼はその苦しみを通して、多くの人達を獲得することになったのです。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 (ヨハネ3章16節)

祈り:

主イエス様、このクリスマスに、罪の深みにあるこの世にやって来られ、そしてご自分の赤子としての命をマリヤとヨセフの手に委ねられ、人の子として成長されました。あなたは人の悩みと悲しみ、傷と苦しみ、孤独と嘆きを体で味わわれました。そして私たちが癒され、希望を持ち、罪赦されて永遠の命に与れるように、御自身の命を注ぎだされました。人々のあざけりと、憎悪とを受けながらも、御父によって遣わされた使命を果たされました。ありがとうございます。このクリスマスに、あなたの愛の光を私たちもこの世に映し出すことができますように。そして生ける愛の神が、この世に訪れた福音を伝えることができますように。

兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。 (ピリピ3章13-14節)

信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。 あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。 (ヘブル12章2-3節)

<近況のご報告を兼ねて、レッスンの分け合いでした。このクリスマスが、聖霊の恵みに満たされた素晴らしい時となりますように!>

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