クリスマスの奇跡 -6

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2023年12月4日

12月4日 必死の祈り クリスマスの奇跡 パート六 (ひとしずく一三九五)

 あなたがたのうち主を恐れ、そのしもべの声に聞き従い、暗い中を歩いて光を得なくても、なお主の名を頼み、おのれの神にたよる者はだれか。(イザヤ五十章十節)

 真っ暗闇の中で、どんなに必死に祈っても、祈りなど聞かれないように思える時があります。この時の私はまさしくそんな状態でした。しかし、そんな時でもやはり私たちの嘆きと叫びと呼び求める声に耳を傾けてくださっている主がおられるのです。

 Aさんがいなくなってから、私は、どうしようもなく醜くて利己的な自分に嫌気がさしていました。私は暗闇の中にいたのです。以前の私だったら死にたい気持ちになっていたかもしれません。いえ、この時もそんな気持ちにとても近かったと思います。しかし、一つ以前の私と違っていたのは、主を知っていたこと、そして聖書の言葉を読んでいたことです。
 私は部屋にこもり、食べ物もろくに口にすることなく、ただ答えを求めてひたすら聖書を読み続けました。聖書を読むことは、イエス様に出会ってから数年間に亘る私の習慣でしたが、Aさんが出て行ってからは、いつにもまして寝ても醒めてもひたすら聖書を読み続けていました。そして祈りました。その祈りはうめきのようで、「主よ、こんな私でいたくありません。どうか救って下さい。私自身から救い出して下さい」というような祈りだったと思います。まさしく絶望的な祈りでした。祈っても祈っても、何の手応えもないように思えても、それでも私には祈るしかありませんでした。

そんな祈りをしながらの悶々とした日々の七日目のことです。ついに主は、私の苦悩の祈りに答えてくださいました。

Aさんが突然、ガラッとアパートの引き戸を開けて姿を現わしたのです。そして、Aさんは思いもよらぬ人たちを連れてきたのでした。雪の降り積もる寒い日のことでした。(続く)

この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、すべての悩みから救い出された。(詩篇三四篇六節)

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