12月3日 疑い クリスマスの奇跡 パート五 (ひとしずく一三九四)
私は、毎日大学へ、そしてAさんは毎日職探しをしていました。といっても、いつも私が先に部屋を出るので、彼が本当に仕事を探していたかどうかはわかりませんが。
Aさんは優しいところもあり、ある日、みぞれが降ってきた時、ずぶぬれになって大学まで傘を届けに来てくれたこともありました。
そんな彼との生活が一ヶ月半くらい続いた頃、私の通っていた牧師と牧師夫人が私に特別な話があるということで、教会に呼ばれました。何のことだろうと思って行くと、Aさんについての話でした。私はAさんを一度教会に連れていったことがあります。それで、彼らはAさんを見て、悪い印象を持ったのでしょう。私を心配して言ってくれたのだと思いますが、Aさんと生活をしていたら、私が悪い影響を受けるということでした。
私は彼らに、Aさんについての説明をしました。しかし、彼らは、Aさんをすぐにアパートから出したらいいとの一点張りでした。私は、「(恐喝された時)あなたの敵を愛しなさい」という言葉を主から受け、主の導きに従っているので、自分の気持ちを変える気はないことを主張しました。一時間近く話しましたが、結局、彼らとは話し合いがつかないまま、教会を出たのでした。きっと分からず屋の頭の固い若者だとあきれられていたことでしょう。しかし私も、彼らに失望していました。
人を外見で判断し、レッテルを貼り、あの人はこうだと決めつけてしまうことによって、人は檻に入れられたような状態になってしまうと思います。たとえ刑務所に入っていなくても、「あいつは危険人物だ、そんな奴に関わるな!近づくな!」と、レッテルを貼る事によって、簡単に人を檻の中に閉じこめることができるのです。
彼らの聖書にそぐわない発言は、本当に私をがっかりさせ、失望させました。しかし、恐ろしい事に、それと同時に彼らの言葉は、私を洗脳してしまったのでした。
牧師との議論の後、アパートに帰る途中、その時まで心に思ってもみなかった疑念が湧いてきていたのです。
「そうだ、Aさんと一緒にいるから、食べ物がいつもないんだ」
おかしなことです。何を食べるかなど、いつもほとんど気にしていなかった私が、そんなことを思ったのですから。そしてAさんについての否定的な思考を持ち始めていたのです。
私はアパートに帰ると、ついに布団で横になっているAさんに向って、「Aさん、教会に行く気がないのなら、出ていってください」と言ってしまったのです。それは取り返しのつかない悲しい言葉でした。
翌朝、起きるとAさんは消えていました。私は血の気が引く思いでしたが、もしかしたらそのうち、ひょっこり戻ってくるかもしれないという気もしていました。しかし、翌日も翌々日も彼が戻る事はありませんでした。私は、Aさんにひどいことをしてしまったという罪悪感に襲われました。結局、私のAさんに対する愛など薄っぺらなものだったのです。
神の霊と言葉に突き動かされて、Aさんとの生活を始め、彼と一緒にいた一ヶ月半、私の心は満たされていたというのに、結局彼を助けるどころか、深く傷つけてしまったのです。
人の犯した過去の過ちでその人を決めつけることは、愛の反対です。愛は赦すことであり、寛容です。そして決してあきらめないことです。
私は・・・牧師夫妻の言葉に失望しながらも、自分も同じように、Aさんにレッテルを貼って、裁いてしまっていたのです。
「お前は、***してきただろう。お前が変われるはずはない。お前は信頼できないから、近くにいるんじゃない」こんな思いが、人を変えることはないでしょうし、かえって変わるのを妨げてしまいます。
私は自分の罪深さに嫌気がさし、うんざりし、何もしたくない気持ちでした。何も持たずに寒い雪の中を朝早く出て行った憐れなAさんを思うと、自分が極悪非道な人間に思え、ひどい絶望感に襲われました。
幸い大学はもう冬休みでした。私はただ何もしないで、またほとんど何も食べずに、こたつの中でただ祈り続けていました。主がこんな私を赦し、またこんな惨めな状態から救い出して下さるようにと。そしてAさんを助けてくださるようにと。(続く)
人をさばくな。自分がさばかれないためである。(マタイ七章一節)
それが大先生の言葉であろうと、
押さえきれない自分の感情のたかまりであろうと、
社会の慣習であろうと、
それらに動じることがないようにしよう
もしそれが聖書に書かれている神の最高の意志である
「愛」でないなら忘れてしまったっていい。
その思いは愛から来ているものなのか
その行いは愛を表しているのか
その言葉は愛の心から出ているのか?
神は愛である
愛さない者は神を知らない
神を愛する者は兄弟をも愛すべきである
‹誤解のないように、付け加えさせて下さい。私はこの牧師は悪者と思っていません。私やあなたと同じ罪びとに過ぎないだけです。そして私を悪から守ろうとして必死だったのだと思います。色々な牧師さんたちに、助けてもらいました。また色々な教会の方たちのお世話になりました。私がイエスを知り、聖書を読むようになったのも、ある牧師の娘さんが私を何度も聖書研究に誘ってくれたからです。今、私は、信仰を共にする仲間を見つけて聖書を共に学び、祈りあう時を持って、感謝です。マタイ十八章二十節には「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」とあります(マタイ十八章二十節)。あなたも主イエス様を信じる人との交わりに恵まれますように!›