12月2日 主の供給 クリスマスの奇跡 パート四 (ひとしずく一三九三)
私はAさんに、私が留守のときは、部屋に吊るしてある上着のポケットにお金が入っているので、何か必要なものがあったら自由に使っていいと言ってありました。そのポケットにあるのが、実は私の全財産でした。そういうと、いかにも太っ腹のように聞こえるかもしれませんが、全財産といっても、千円足らずだったと思います。時々、彼は、鳥のえさ代にそこから百円使ったと言いました。私は心の中で、えっ?!僕は一日五十円の素うどんで生活しているのに鳥のえさに百円?!とも思いましたが、彼はパンを買ってその食べた残り屑を小 鳥に与えていたのです。
私が一人でいた時でさえ、食事代はぎりぎりだったので、Aさんと私の二人暮らしが始まってからは、今日は何も食べるものがないという日がよくありました。しかし不思議なことに、そんな時にはいつも何かしらの方法で食べ物が与えられたのです。
ある時は、突然アパートのお隣さんが私の所にやってきて、「これ、食べてください」とお餅を頂きました。アパートに引っ越してまだ間もないこともあり、私はそのアパートにどんな人が住んでいるのか、またお隣さんさえ全く知りませんでしたが、 そのように突然、まだ会ったこともないお隣さんがお餅を持ってきてくれたのでした。
そしてある時は、ちょうどタイミングよく田舎の母から食べ物の入った箱が届いて、しばらく食べつなぐ事ができました。また、それも食べ尽き、今日こそ、いよいよ何も食べ物がないぞ、と思っていると、今度は突然、アパートの大家さんが来て、アパートの屋根の雪下ろしをしてくれたら、夕食を出してあげるぞ、と言ってきたりしました。私は新聞配達のバイトをしていましたが、朝、 新聞配達する前に、いつもアパート前の道の雪かきをしていたので、大家さんが、屋根の雪下ろしもしてもらえるかもしれないと思って頼みにきたのかもしれません。もちろん、私たちは喜んで、屋根に上って雪下ろしをし、その日の夕方は、大屋さんの家に招かれてごちそうを頂きました。Aさんがそこに住んでいる事に関しては、大家さんから許可を何ももらってはいませんでしたが、大家さんは何も言いませんでした。むしろ、何か私たちに対してとても優しい態度で応じてくれていたのです。
ところで、ある時、Aさんがポツリと「肉を食べてみたいな」と言いました。そういえば、私も肉など長い間食べてはいませんでした。しかし、その時、手元にあったのは五十円だけでした。当時の五十円ですから、現在よりはもっと価値はあったものの、肉の買える額ではありませんでした。しかし私は、その最後の五十円で肉を買えないものかと思い、試しにお店に行ってみました。すると閉店間近の時刻だったので、安くなっていて、五十円で十分な量の肉を買うことができたのでした。そしてその日二人で、久しぶりのお肉を食べました。
神様はこのように、私たちにお金のない時にも、毎日食べ物を与え、養ってくださったのです。
当時のことを思い出すと、本当に次の聖書の言葉の通りであり、神の約束の真実に確信が深まります。
「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれるこ ともしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
また、なぜ、 着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。
ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイ六章二五~三四節)
イエス様の言葉は、美しく聞こえます。しかし、それはただ飾るためのものではなく、実際に それに生きて、頼ることのできる言葉であり、「天地が滅びても、わたしの言葉は滅びることがない」と語られた確かなお言葉です。こんなにも 尊い約束が私たちに与えられていますが、私たちはその価値に気づかないでいることが多いのだと思います。私たちがこうした尊い約束の祝福に入ることができるように助けて下さいますように。それに生きることによって、神様の生きておられることが真実で、また神様の言葉が虚しいものではないことを、ますます確信できますように! (続く)