11月23日 最も小さい者のひとりに (高原だよりより ひとしずく)
先日、娘の一人と散歩をしていると、林の中に黄色い実をみつけました。近所の人が「これは木苺で、食べられるのよ。おいしいわよ」と教えてくれました。
さっそく、わたしたちは摘み始めたのですが、そこはいつも会うおじいちゃんの林でした。勝手に木苺を摘むのも気が引けたので、おじいちゃん の家に、採ってもいいか尋ねに行くことにしました。
「ごめんください」
玄関に入ると、おばあちゃんがそこで野菜の仕分けをしていました。おばあちゃんにいくつか採った木苺を見せて、「この木苺をお宅の林で採ってもよろしいでしょうか?」と尋ねると、「ああ、木苺ね、おいしいよ。食べられるよ。採ってもかまわないけど、雨が降ってきたよ。大丈夫かい?」とおばあちゃんは答えてくれました。
短い会話ながらも、おばあちゃんの優しさが伝わってきました。おばあちゃんは木苺を摘むのを気前よく許可してくれただけでなく、わたしたちが濡れるのを心配してくれたのです。お陰で娘と一緒に雨に濡れながらでしたが、採ったばかりの木苺をほおばりながら、木苺摘みを楽しむことができ、家族 のおみやげに持って帰ることができました。
こうした祝福に預かることができたのは、喜んで与えてくれた優しいおばあちゃんのお蔭です。主の祝福が彼女にたくさんありますように。
このおばあちゃんのように親切な人で、息子のヘアカットをする度に思い出す人がいます。23年ほども前の話になりますが、長男がまだ7、8歳だったころ、その息子と伝道の旅をしていたことがありました。その時、ある理髪店の店長さんが、わたしの息子の髪の毛を無料で切ってくれました。そしてわたしは、男の子のヘアカットの仕方を彼に教えていただいたのでした。彼はまったくの素人のわたしに、はさみの使い方から切り方までとても丁寧に教えてくれました。 たった一回のヘアカット授業でしたが、この時以来、わたしは4人の息子の髪や、息子以外の男性の髪も、長い期間にわたって 切ってきました。あの時に出会った彼のお陰でどんなに助かったことかわかりません。いつも息子たちの髪を切る時には、あの親切な理髪店の主人のことを思い出すのです。
思えば今まで、このような無償の親切を施して下さった方にどれだけ出会ったことでしょう。特に伝道旅行の際には、見ず知らずのわたしに、ただイエ ス様の福音を伝えている者と聞いただけで、多くの人は理解もしていなかったことでしょうが、喜んで助け与えてくださいました。おにぎりを握ってくださった方、一晩泊めてくださった方、ヒッチハイクで車に乗せてくださった方……わたしはそれらの人たちに、もう地上では会うこともないでしょうし、お返しに何かをしたくてもすることもできません。でも主はきっと、これらの人たちを覚えていて下さって、天国に行った時、大いに報いてくださることでしょう。そしてこの地上でも、彼らの上に主が豊かに祝福を注いで下さるよう祈っています。
わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない。(マタイ10章42節)
そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気 のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである」。そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、「主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て
食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。ま た、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか」。すると、王は答えて言うであろう、「あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」。(マタイ25章34~40節)