闇の中

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2023年11月17日

11月17日 闇の中
あなたがたのうち主を恐れ、そのしもべの声に聞き従い、暗い中を歩いて光を得
なくても、なお主の名を頼み、おのれの神にたよる者はだれか。(イザ ヤ50
章10節)
夜になると、わたしの家の近くには街灯ひとつないところがあります。月が出て
いれば辺り一面見事な景色ですが、月の隠れた夜は、まさに真っ暗闇で す。
引っ越して来たばかりの頃は、真っ暗闇のその場所を通るのがとても怖かったも
のです。何も見えないので、視覚によらず、別の感覚や記憶に頼ら なければな
らないのです。これは冒険です。信仰の歩みもそれに似ています。
聖書の中に「闇の中を歩くときも、光のないときも」(イザヤ50章10節)と
いう言葉があります。わたしたちは、物事がうまくいっているように見 える
時、主が愛の陽の光を輝かせてくれているように思える時、安心します。しかし
その「安心」は必ずしも「信仰」から来ているものとは言えませ ん。もし物事
がうまくいっていない時でも、平安を保てるなら、それは「信仰」による賜物と
言えるでしょう。
わたしなどは、自分が何かの面で良くできていないように思えると、「やり続け
て何になる? 自分はうまくやれないのだから、投げ出そうか」と思う 誘惑に
駆られることがあります。心に平安が持てたり他の人の役に立てている、あるい
は有意義な時間を過ごせたと思えると自分はうまくやっている、 信仰を保って
いると思うのです。でも、このように自身の幸福が、自分のしている業や心の状
態に左右されるというのは、信仰による歩みでも何でもあ りません。
たとえ投げ出したくなる誘惑に駆られても、なお信じて進み続けることが必要な
時があります。
わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。
(第二コリント5章7節)
主はわたしたちがどれだけ信仰を持っているか見たくて、時々信仰のテストをさ
れます。そして、それはつらい時にもなりえます。人はそれぞれ異なっ た困難
によって試されます。ある人は長期にわたる病気かもしれません。ある人は人間
関係での摩擦かもしれません。ある人は経済的な問題かもしれま せん。またあ
る人は中々克服できない悪癖かもしれません。しかも、その試練から簡単には解
放してくれないように思える時があるのです。
聖書には、主が人にそのような試練を課されたケースがいくつも記されていま
す。ヨブは、自分の家族や財産、そして自分の健康すらも失いました。ヨ セフ
は、自分の兄弟たちに裏切られ、奴隷として売られました。また、王の位を継承
できたはずのモーゼは、自分の同胞を救おうとしたことで殺されそ うになり、
荒野で40年間も孤独な生活をすることになります。これらの人たちは皆、信仰
のテストを通過した後、大きな祝福に預かることになりまし た。主はそれらの
テストを通して、わたしたちが主に近くなり、また、主とひとつになることを教
えようとされる場合がよくあります。
今、闇の中を歩いているように感じていますか? 主の言葉は、あなたの足もと
を照らす灯となってくれます。ちょうど、目が見えなくても、誰かが手 を引い
てくれるなら歩けるように。今闇の中にあったとしても、主の言葉を頼りに進ん
でみてください。主は決して失望させることはないでしょう。
あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。(詩篇119章105
節) ︱詩篇109全部を読まれることをお勧めします︱
あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなた
がたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と 同時
に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。(第一コリ
ント10章13節)
わたしは決してあなたを離れずあなたを捨てない。(ヘブル13章5節)

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