11月12日 逆境の中にある大きなチャンス
(ひとしずく645)
ある27歳になる若者がいました。彼は、ある小さな村にやってきました。そこはかつて、人々が畑を作り、そばや苺を栽培していた場所でしたが、今では木は伐採され、村人に捨てられた場所になっていました。
彼はその場所を見て、そこを農園にする夢とビジョンを持ちました。
しかし、村の人たちは「そこは、作物が育たないから止めたほうがいい」「できっこない」と口々に彼に忠告しました。しかし、彼はあきらめることなくそこに留まりました。土地を手に入れたくても、売ってくれる人がいなかったので、まず彼は小さな土地を借りることにしました。そしてとても小さな小屋を建てました。
一年経ち、二年経つと、村の人が少しずつ、彼に土地を使ってもいいと言ってくれるようになりました。やがて、農村の人々が、育つはずがないと言った場所、日本でも最も寒冷地といわれる場所で、彼は、人参、ジャガイモ、タマネギ、レタスなど、たくさんの野菜を栽培するようになったのでした。しかも無農薬自然栽培を、現代の農業の考え方から全くかけ離れたやり方で成功させ「できっこない」という周りの人の常識を覆してしまったのです。
これは遠い外国でのお話ではありません。私が今、視察で訪れているここ北海道でのお話です。彼は今、奥さんと二人の子供と共に、ヤギ、羊、ニワトリ、牛、豚などの家畜と仲良く生活しています。人なつっこい番犬たちが、熊からこの動物たちを守っています。
動物たちは皆、幸せそうな顔をしています。小さな籠や、小屋に押し込められておらず、広い大地を遊び回る自由があります。動物たちから喜びの声が聞こえるようです。
彼の建てたあの小さな小屋は、今ではもう少し大きな小屋に造り変えられ、農作業体験者の寝泊まり場所として使われています。ついさっきまで中学生の女の子が一週間の体験生活を終えて帰って行ったばかりです。
彼は大きな二階建ての家も自分で造りました。ある時火事で全焼してしまったために、今の家は、三度目の家だそうです。
30歳となった彼は、今、村の農業委員となり、村の人たちは、彼のしていること、またしようとしていることに一目おいているようです。
<以前書いたこの記事を読み返して、次の聖句を思い出していました:
求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。
魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。
このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。(マタイ7章7-11節)
あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。
だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。
あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。
そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。 そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。
(ヤコブ 1章3-8節)