「破れを繕う者、柔和な者、謙った者、隠れた施しをする者、とりなす者、自分を低くする者、仕えられるのではなく仕える者、義のために迫害される者・・・」 聖書ではこうした人たちが祝福されると書かれています。そして、そのような者になるために学びながら生きること、それこそが神様が私たち人間に望まれている生き方なのでしょう。
しかし私たちは、どうしても人の目から見た、強さ、賢さ、美しさを誇りたがります。「ほら、私を見て下さい。すごいでしょ?」と。そして人はそれを認めてくれたり尊敬してくれたりするかもしれません。しかし、主の目は、それとは反対に、自分を全く無にして、誰にも知られずに、ただ神や人に尽くしている人に注がれているのかもしれません。 それはある人を見て、私が思ったことです。人がいる所にはどこにでも、誤解やら、いざこざがあります。ある所でもそんなことが起こりました。その時、その両者の間に立って、熱心にお互いが理解し合えるように取りはからい、時間をとって相手の話をよく理解しようとしたり、また説明したりすることに全力を注いでいる人がいました。とても面倒で、いやな役であり、自分には何の見返りもないというのに、一生懸命、両者の間を取りはからっているのです。まさしく「破れを繕う人」であり、その謙遜で誠実な姿に、私は胸を打たれました。自己主張する人の多い世の中、互いにぶつかりあうことも多いと思いますが、自分の意見を少しも主張することなく、こうしたクッション的 な役割を担ってくれる人は何と貴重な人なのでしょう。このような人がいてくれるからこそ、この世の中は成り立っているのだと思いました。目立たず、自分のことなど何一つかまわず、ただひたすら他の人を気遣い、いつも誰かのために熱心に祈りを捧げ続けている・・・そんなあの人は、目立たず、ひっそり生きていると思っているけれど、天ではきっと誰よりも知られた存在であり、主の目に眩しく映っている偉大な人なのだと思いました。 「人はあなたを『破れを繕う者』と呼び、『市街を繕って住むべき所となす者』
と呼ぶようになる。」(イザヤ58:2) 「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(マタイ23:11,12)
「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。(マルコ 10:45)