11月9日 自分の弱さを誇りつつ (ひとしずく648)
昨夜、妻と息子が、テレビでバレーボール観戦をしていました。日本対アメリカの試合で、日本はなかなか頑張っているということでした。
私は、他にすることがあったので、一緒に見なかったのですが、やはり日本を応援していました。テレビ観戦して興奮している彼らの声を聞きながら、観戦熱もすごいなと思いました。日本チームには、勝ってほしいと思いますが、相手チームにもそう願っている家族や、国民が大勢いるんだよなー、と意外と客観的な態度を持って、彼らの喜んだりがっかりしたりする声を聞いていました。そして、勝てば高ぶり、負ければ落胆、どちらにもなってほしくないなーとも思っていました。結局日本は負けてしまいました。
翌朝、何気なく新聞を見ると「欧州サッカー界止まらぬ自殺」という小さな記事が目に飛び込んできました。今、欧州ではサッカー選手の相次ぐ自殺が起こっていて「心身両面で『強さ』の象徴とされがちな選手だが、近年は内面の問題から自らの命を絶つケースが目立つ」と書かれていました。スポーツ選手は精神面でも強そうに見えますが、実はやっとの思いで、そのプレッシャーに耐えているのかもしれないと思ったら、何だか、彼らがかわいそうになってしまいました。
よく考えてみると、どんなスポーツでも、ゲームに勝つということは、自分の強さを誇る機会となり、選手も、それを見て応援している人も、相手チームよりも自分たちは優れているんだということに結局は酔いしれたいのだと思います。
しかし、そうした自分達は優れているということを試合で示すこと、また観客のために示してあげることを望む選手は、もし負けたら観客、あるいは応援してくれる人たちの期待を裏切るかもしれないという大きなプレッシャーを常に背負って生きることになるのではないでしょうか。特にそれが国の代表となると、そのプレッシャーも想像を絶するものとなるでしょう。人は完璧ではありません。本当は強くもありません。なのに、強い、すごい、あの人のようになりたいという、人々から期待される完璧で強いイメージを保って行かねばならないのです。
ところで私たちクリスチャンもこの人生においての競争に参加しています。それはイエス様を見上げ、信仰を守りつつ走る競争です。決して肉の強さを誇る競技ではありません。しかし、私たちも時々、肉を誇る選手になってしまうことがあるのかも知れません。つまり、主の奉仕をしながら、人の目を気にしたり、失敗を恐れたり、そんなプレッシャーに押しつぶされそうになってしまうのです。そこには平安も喜びも何もありません。それは私たちの参加すべき競技ではないのです。
私たちの参加すべき競争とは、強くなり完璧になり、人々の期待にいつも答えられるというものではありません。そうではなく、むしろ、弱くなることで、謙遜になって主に頼り、その主の力によって進み続けるのです。「弱くなること」それこそが私たちの内におられるイエス様の力が完全にあらわれる最高の機会なのです。だから、私たちは負けたり、失敗したりすることを恐れず、むしろ喜んで自分の弱さを誇り、イエス様を仰ぎ見つつ競争を走り抜く者となりましょう。
「…いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競争を、耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」(ヘブル12:1、2)
「主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るよう に、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、 わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」(第二コリント12:9、10)