11月8日 本当のイモムッチは生きている! (ひとしずく640)
昨日は、知り合いの方のお母様の御葬儀を導かせていただきました。
葬儀の始まる前に、私は窓際のポットに植えられている小さな花を眺めていました。するとそこに小さな蝶が、どこからともなく元気良く飛んで来たのです。私は11月も中旬を過ぎたというのに珍しいなと思いました。そしてそれは、人が「さなぎ」のような自分の体を脱ぎ捨てて、自由な霊の体となって空を舞う姿をイメージさせたのでした。きっと主が、その大切なメッセージを、この葬儀に際して、私たちに今一度思い起こさせようとしているのだと思いました。
「人の死」とは、いもむしが「さなぎ」という死を通して蝶になるようなものだと、私たちクリスチャンは理解しているのですが、主は、次のような物語をくださいました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「本当のイモムッチは生きている!」
アリのアリッチといもむしのイモムッチはとても仲の良い友達でした。
アリッチは、面白くて愛嬌があって、気のいいイモムッチのことが大好きでした。
ところがある日のこと、イモムッチは病気になったのか、だんだんと動かなくなってしまったのです。そしてイモムッチは硬く茶色い布団にくるまって、毎日寝込んでいました。
アリッチは、イモムッチのことが心配でなりませんでした。アリッチは忙しかったのですが、できるだけイモムッチのところに立ち寄るようにしていました。しかし、イモムッチは寝込んでからというもの、話しかけても、全く答えてくれなくなってしまったのです。
それでもアリッチは、自分で運べるギリギリの大きなサイズに切り取ったキャベツの葉っぱを、暇をみてはイモムッチのために運んで行ったのでした。
「おーい、イモムッチー」今日も何の返事もありません。
「おや?」アリッチは、イモムッチの茶色の布団がいつもと様子の違うことに気づきました。布団は破れ、何とそこにイモムッチの姿はなかったのです。
アリッチは、イモムッチに何か大変なことが起きたに違いないと思いました。
「もしかしたらイモムッチは、あの獰猛なカラスどもに襲われたのかもしれない・・・。ああ、かわいそうなイモムッチ、君はいったいどこへ行っちゃったんだい?」
アリッチは、イモムッチの空っぽになった布団を見つめて、悲しくなってしまいました。
ところがその頃イモムッチは、茶色の布団「さなぎ」から抜け出て、エキサイティングな飛行を楽しんでいたのです!イモムッチは、夢にも思っていなかった素晴らしい世界を、驚きと喜び、興奮をもって体験していました。
「そうだ!アリッチはどこにいるんだろう?彼に、自分の新しい姿を見せてあげたいな・・・。そしてこの感動も!」
イモムッチは空中からアリッチを探しました。すると自分の布団、つまりさなぎの抜け殻のすぐ近くに、親友のアリッチが悲し気な顔をしてつっ立っているのを見つけたのです。
イモムッチは嬉しくなり叫びました。「おーい、アリッチー!」
アリッチは、どこかで自分の名前を呼ぶ声が聞こえ、きょろきょろ辺りを見回していました。イモムッチはもう一度、呼びかけました。「おーい、アリッチ!僕だよ。上を見て!」
やっとアリッチは上に顔を上げ、蝶になったイモムッチを見ました。しかし、アリッチには、陽の光を反射して、羽を輝かせている蝶が、親友のイモムッチだとは夢にも思いませんでした。
「アリッチ、ボクだよ。イモムッチだよ!」
まだ理解できないアリッチは「イモムッチだって?冗談はよしてくれ。彼は、地面をえっちらおっちら、顔を地面にこすりつけるように這ってあるく虫なんだよ。僕をバカにするのもいい加減してくれ!」と怒りました。そして、蝶になったイモムッチはアリッチに、自分がイモムッチだということを理解させるのに大変苦労したのでした。
アリッチをはじめ、虫仲間たちは、目で見え、手で触れることができる、いもむしの姿をしたのがイモムッチだと思っていました。しかし、イモムッチをイモムッチたらしめるものは、目で見、手で触れることのできるものではありませんでした。本当のイモムッチは、実は地を這って生きていた時から、目で見たり、手で触れられものではなかったのです。地を這うイモムッチと、蝶のイモムッチが同一の存在であるのなら、目で見える姿に違いがあっても、イモムッチに変わりはないのです。
蝶になったイモムッチは、自分のさなぎの抜け殻にすがって泣き悲しんでいる者たちにこう叫んでいます。「みんな、僕はここにいるよ、僕は死んでなんかいないんだよ!」
そうです!あのおどけて、ユーモアたっぷりで、気のいい、そしていつも気遣ってくれるイモムッチは、死んでしまったのではありません。ただ姿が変わっただけなのです。
「人の死」もそれと同じようなものなのではないでしょか?神様は、いもむしと蝶のような生き物を使って、地上にいる私たちがそれをよく理解できるように示して下さっているのだと思います。
人生の卒業を迎えた、目の前に横たわる愛する人の亡骸は、その人そのものではありません。それはその人が抜け出た、いもむしであり、さなぎです。その人は決して消えて無くなったりしたわけではないのです。
肉体が滅んでも、その人の本質である霊(魂)は、完璧な姿をして、私たちのすぐそばに存在してくれているのです。
「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。
だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」
コリント人への第二の手紙5章1節。4章16-18節。