二心の者の道 (ひとしずく636)
「彼は二心の者であって、そのすべての道において定まりがありません。」(ヤコブ 1:8)
私たちは、どれだけ 人を恐れて生きているでしょうか?
特に日本人は、この人にあるいはあの人にどのように思われるかを心配ばかりして、あるいは怖がって暮らしている人が、多 いのではないかと思います。そのため、自分の信念を妥協し、周りに合わせ、流されるままになってしまうのです。それを謙遜、柔軟、平和主 義、寛容といった、自分弁護的な捉え方をして、自分を納得させてしまっているのです。しかしその根底には、自分を守るため、あるいは自分 の利益のため、そして波風立てて面倒なことにならにように、と言った、自分かわいさから来る自己中心、また怠惰な思いがあるのではないで しょうか?それは、恐れるべき方を恐れていないことの現れとも言えると思います。
「彼らの恐れるも のを恐れてはならない。またおののいてはならない。あなたがたは、ただ万軍の主を聖として、彼をかしこみ、彼を恐れなければならない」 (イザヤ書8章12節13節)
ちいろば先生で知ら れる榎本保朗氏は、この聖句を次のように説明しています。
「私達は自分自身を 反省してみると、造られたものを恐れている。けれど造られたものを恐れるということは、造った方を恐れていないからである。世界はすべて 神によって造られたということを信じるのは、ただ単に教理を理解しているだけである。私たちは教理の理解者にとどまっていてはならないの であって、信仰者でなければならない。それは被造物を恐れないことである。造った方を恐れるときにはじめて造られたものを恐れないで生き ることができるのである。」
聖書には他にも、被 造物である人を恐れることに対して警告しています。
「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。」(箴言29:25)
「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかた (神)を恐れなさい。」(マタイ 10:28)
榎本保郎氏が言うように、私たちはただ教理的に神を信じているというクリスチャンでしょう か?ただ口では信じていると言っても、神を信じていない思想で行動していないでしょうか? 神は私たちの心を全てお見通しです。口先だけ の信仰ではなく、行いが伴わなければならないと思うのです。
二心の者はそのすべての道において定まりがないと聖書が言っているように、私たちは「然り」を「否」のように、また「否」を「然り」のように生きてはならないのだと 思います。「然りは然り」否は否」、それ以外に何も正しい道はないのですから。
あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出る のである。(マタイ5:37)
祈り:主よ、私たち の不信仰や弱さを憐れんでください。あなたの偉大なる力とあなたの愛に、思いを集中するのを助けてください。あなたこそ、真に恐れるべき 方。どうか私たちが人を恐れることによって、あなたが下さろうとしている祝福を逃すことがありませんように。ただあなたのみを恐れ、人々 が自分を見るとき、そこにあなたの栄光を見ることができるような者となるのを助けてください。