十月三一日 石を一つづつ (ひとしずく六二五)
「ありがとう!」 母は満面の微笑みを浮かべて、私たち家族を見送ってくれました。
今回、秋田の実家に数日滞在し、母親の愛用していた、手押し車を直してあげたのが、母にとってはとても嬉しかったようです。
この手押し車は、大きな籠がついていて、畑で採れた野菜を家まで押して持ってくるのに使っていたものです。これが最近壊れてしまって、弟に新しい手押し車を買ってもらったそうですが、奇麗なものではあっても、大きな籠がついていないので、野菜を運ぶのには使えないということでした。この手の大きな籠つきのものは、もうどこを探しても売っていないらしく、その手押し車を直して使えたらという願いを母親は捨てきれずにいました。母がまだ元気だったころは、一輪車を押して野菜を運んでいたのですが、今では、その一輪車を押す力もなくなった母にとって、この手押し車は彼女の仕事の大切な相棒となっていたのです。その手押し車を見てみると、壊れた車輪の軸はプラスチックで出来ており、もう直しようがないほど、すり減ってしまっていました。
しかし、何とかできるかもしれないと思い、ホームセンターに材料を探しにでかけました。そして重い荷重に耐えることができる荷物用の車輪を手に入れて、いらなくなった板があったので、それを籠の枠にとりつけて、そこに車輪をつけてみました。息子と一緒に取り組んで、何とか手押し車は完成しました。もう外は暗くなっていましたが、出来上がると母は早速、それを押してみるために家から出てきました。見栄えはお世辞にも良いとは言えませんでしたが、彼女はそれをとても気に入ってくれたようで、彼女の笑顔は、喜びで輝いていました。何か、神様の微笑みを見たような、そんな気分になりました。
小さな畑を大事にし、自分は大して食べないのに、私や弟の家族のために、野菜を作り、また近所の人たちにも分けたりしている、この小さな老いた母のために、何か一つでもしてあげることができたんだと、私は嬉しくなりました。
そして彼女の顔が、確かに神様の光で輝いているのを私は感じたのです。それはとても神聖なものでした。
私たちは、何か美しいものに魅せられる時、感動で一杯になります。特に、人が喜びと感謝と、愛で溢れているのを見ることほど、こちらも感動してしまうことはありません。
私がしたのは、とても単純なことで、何とか母のために、この手押し車を復活させようとしたことだけでした。それをこんなに喜んでもらえるとは・・・。思いがけない感動的な報酬を即座に受け取れたことで、人生って凄いんだ!私たちには、すぐそばに感動と愛と喜びがはち切れんばかりに待っているのだ!と思ったのです。
私たちは、この世界が愛でいっぱいの世界になったならと願っています。でも自分一人ではそれをするのはとても無理な話です。しかし皆が、そばにいる誰かのために、どんな小さなことでも愛をこめて行うなら、少なくとも一人の喜びや笑顔は作ることができるのです。小さな石を積み重ねるように、そうした愛をこめた小さなことをし続けることで、愛と喜びでいっぱいの世界を築いていくことができるのではないかと思いました。
「ブラザーサンシスタームーン」の映画で流れる「聖ダミアーノ」の歌詞のように。
「聖ダミアーノ」
「夢をまことにと思うならば
あせらずに築きなさい
その静かな歩みが遠い道を行く
心をこめればすべては清い
この世に自由を求めるならば
あせらずに進みなさい
小さいことにも
すべてを尽くし
飾りない喜びに
気高さが住む
日ごとに
石を積み続け
あせらずに築きなさい
日ごとにそれであなたも育つ
やがて天国の光があなたを包む」
すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
(マタイ二五章四〇節)