十月三〇日 支配の霊
デレク・プリンス氏は、「支配の霊」は、悪魔から来ていると言っていました。エペソの手紙にも、「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」とあります(エペソ六章十二節)。ですから、私たちは、霊のうちで自分達を支配しようとしている悪霊の一つである「支配の霊」に敵対して戦闘中です。
神の子となって、自由にさせられたのに、神以外のものに支配されるということは、確かに御心ではないように思えます。しかし、私たちは知らず知らずのうちに、支配されてしまっている場合があると思います。
子供が親の下で、自由に感じないという窮屈さを覚えることは、よくあることです。親は、子供をいつまでも自分の言いなりにさせるクセがついているように思えます。私は、たくさんの子供に恵まれているのに、このことになかなか気が付かなかったのです。親は子供のために「良かれ」と思うことを話します。そして子供が小さい時には、それが親のすべきことです。しかし、いつまでも子供は子供であるわけではないです。成長して、自分で考え、親の言っていることを吟味し、自分で自分のための神の御心を探って進んでいくということが必要となります。
その子供の大人への成長をする時、親の側も成長が必要なのです。手放して、自分で考えて、間違ってもその間違いから学ぶ機会を提供してやるということが。
これは、小さい時、監督やよく教えることが必要ではないということを言っているのではありません。ある面では、十分に教えられたり、訓練されたりしていないのに、放置するということとは違うと思います。
特に神の御言葉にあって、子供を養うという召しを受けている親にとっては、み言葉による教育と訓練は、必須だと思います。特にこの世では、聖書の言葉を正しく教えてもらう機会は、非常に少ないですから、そうした状況の中では、み言葉あらゆる機会を使って分け合うということは大切だと思います。
しかし、親であれ、教える側であれ、いったん十分に教えられ、独り立ちする時期になっても、自分の言ったとおりに行動することを求めてしまうということは、間違ったことにつながります。
人は皆、この世に送り出されます。そしてこの世は、まだ悪魔の支配下にあるため、成長したら子供たちも、悪魔の支配の霊に対抗して、神が導かれる自由のうちに主の子供として生きていかなければなりません。これは、律法と信仰についてパウロが語っていた原則も当てはまります。
しかし、信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。 このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。 しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。 (ガラテヤ三章二三~二五節)
イエス様も使徒たちも、人が自由に信仰の選択、決断をして生きることを語っています。
だから、もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである。 (ヨハネ八章三六節)
主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。 (第二コリント三章十七節)
自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。 …兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。(ガラテヤ五章一、十三節)
信仰に入った人達が自分に与えらえた自由を正しく行使して、実を結ぶ生き方をしていけるように、権力をふるったり支配しようとするのではなく、助けることが親、教師、監督の役割だと思います。
わたしたちは、あなたがたの信仰を支配する者ではなく、あなたがたの喜びのために共に働いている者にすぎない。あなたがたは、信仰に堅く立っているからである。(第二コリント一章二四節)
また、ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、むしろ、群れの模範となるべきである。 (第一ペテロ五章三節)