十月二六日 神の国 (ひとしずく六二二)
「御国がきますように・・・」これは、イエス様が弟子たちに教えられた祈りの一部です。以前私は「神の国」とは、いつかイエス様が帰ってこられた時に、やってくるものだと思っていました。
しかし、次のいくつかの聖句で述べられているように、もう一つの意味での「神の国」というのがあるのです。
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ 一章十五節)
「わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである」(マタイ十二章二八節)
ある聖書学者が、神の御名をみだりに唱えないようにするため、ユダヤ人の慣習として「神」という言葉の代わりに「天」という言葉を用いる場合があったと教えています。したがって「神の国」と言われている場合「天の国」つまり天国のことを指しているとも考えられます。 そうなると、神の国、天国は、イエス様が地上にやって来られた時、私たちの所に来たということです。そしてそれは聖句にあるように、条件付きで、悔い改めた心で迎え入れるものなのです。
「神の国」については、他にも色々と聖句があります。
神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。
(ローマ十四章十七節)
これは、神の国とは実質的、あるいは物質的なものではなく「義と、平和と、聖霊における喜び」つまり霊的なものだということです。したがって、実質的、物質的には乏しくとも、「神の国」はそこに存在しうるのです。
イエス様は「神の国は、見られる形で来るものではない。また、『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ十七章二〇、二一節)と話されました。
これは、ヨハネ第一の手紙「愛し合うところに神がおられる。愛さない者は神を知らない。神は愛である」ということと併せ考えるなら、「神の国」は、神の愛で満たされた国ということであり、それは、最終的に天国が地上に実現する前にも、私たちの心に持つことのできるものなのです。
また、イエス様は神の国をたとえて「(神の国は)一粒のからし種のようなものである。ある人がそれを取って庭にまくと、育って木となり、空の鳥もその枝に宿るようになる」と言われました(ルカ十三章十九節)。
からし種は「地上のどんな種よりも小さい」(マルコ四章三二節)ともあります。
だから、自分の中にある神の国がとてもちっぽけに思えても、それでがっかりすべきではない、ということでしょう。こんなちっぽけな親切や愛、そして小さな喜びの種を、大切に植えて育てるなら、鳥さえ宿る大きな木となるですから。神の国は、小さいもので蒔かれ、大きく成長し、広がっていくのです。
愛の主イエス様に、私たちの心を支配して頂く時、そこに神の国の存在が始まると思います。そして、それを成長させてくださるのは主ですが、私たちは主の愛の言葉を大切にし、それに生きるという分を果たす必要があります。神の愛の国の成長を妨げるような、利得や世の誉れ、また比べ合うことや、嫉妬、憎しみを捨てなければなりません。
そうして神の国は成長し、やがては鳥が宿るほどの大きな木となり、地上にいながら、天国に住むことになるのです。
今、何か足りないもの、満たされないものがあり、不幸せに感じていますか? それなら、まず第一に「神の国と神の義」とを求めて下さい。そうすれば、それらのものはすべて添えて与えられ、何よりも天の幸福が心に訪れるでしょう。
…何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。…あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ六章三一~三三節) 愛は寛容であり、愛は情深い。またねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、無作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかな い。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。(第一コリント十三章四~七節)