神の国

j
2023年10月26日

十月二六日 神の国 (ひとしずく六二二)

 「御国がきますように・・・」これは、イエス様が弟子たちに教えられた祈りの一部です。以前私は「神の国」とは、いつかイエス様が帰ってこられた時に、やってくるものだと思っていました。
 しかし、次のいくつかの聖句で述べられているように、もう一つの意味での「神の国」というのがあるのです。

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ 一章十五節)

「わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである」(マタイ十二章二八節)


 ある聖書学者が、神の御名をみだりに唱えないようにするため、ユダヤ人の慣習として「神」という言葉の代わりに「天」という言葉を用いる場合があったと教えています。したがって「神の国」と言われている場合「天の国」つまり天国のことを指しているとも考えられます。 そうなると、神の国、天国は、イエス様が地上にやって来られた時、私たちの所に来たということです。そしてそれは聖句にあるように、条件付きで、悔い改めた心で迎え入れるものなのです。

 「神の国」については、他にも色々と聖句があります。

神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。

(ローマ十四章十七節)

これは、神の国とは実質的、あるいは物質的なものではなく「義と、平和と、聖霊における喜び」つまり霊的なものだということです。したがって、実質的、物質的には乏しくとも、「神の国」はそこに存在しうるのです。

イエス様は「神の国は、見られる形で来るものではない。また、『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ十七章二〇、二一節)と話されました。

 これは、ヨハネ第一の手紙「愛し合うところに神がおられる。愛さない者は神を知らない。神は愛である」ということと併せ考えるなら、「神の国」は、神の愛で満たされた国ということであり、それは、最終的に天国が地上に実現する前にも、私たちの心に持つことのできるものなのです。

 また、イエス様は神の国をたとえて「(神の国は)一粒のからし種のようなものである。ある人がそれを取って庭にまくと、育って木となり、空の鳥もその枝に宿るようになる」と言われました(ルカ十三章十九節)。

 からし種は「地上のどんな種よりも小さい」(マルコ四章三二節)ともあります。
 だから、自分の中にある神の国がとてもちっぽけに思えても、それでがっかりすべきではない、ということでしょう。こんなちっぽけな親切や愛、そして小さな喜びの種を、大切に植えて育てるなら、鳥さえ宿る大きな木となるですから。神の国は、小さいもので蒔かれ、大きく成長し、広がっていくのです。

 愛の主イエス様に、私たちの心を支配して頂く時、そこに神の国の存在が始まると思います。そして、それを成長させてくださるのは主ですが、私たちは主の愛の言葉を大切にし、それに生きるという分を果たす必要があります。神の愛の国の成長を妨げるような、利得や世の誉れ、また比べ合うことや、嫉妬、憎しみを捨てなければなりません。
そうして神の国は成長し、やがては鳥が宿るほどの大きな木となり、地上にいながら、天国に住むことになるのです。

今、何か足りないもの、満たされないものがあり、不幸せに感じていますか? それなら、まず第一に「神の国と神の義」とを求めて下さい。そうすれば、それらのものはすべて添えて与えられ、何よりも天の幸福が心に訪れるでしょう。

  

…何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。…あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ六章三一~三三節)  愛は寛容であり、愛は情深い。またねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、無作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかな い。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。(第一コリント十三章四~七節)   

他の投稿もチェック

神の言葉によって

神の言葉によって 信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。(ヘブル11章11節) 自分のうちには、力も気力ももう残ってはいないと思えても、この朽ち果てて行くからだに、もし神が御声ををかけて下さるなら、その御言葉の種が命を与えてくれることを知っています。神の御心は成し遂げられるからです。...

洪水(信仰のテスト)に備える

洪水(信仰のテスト)に備える 人生、八方塞がりのような場所に立たせられる時が、誰にでも幾度かあるのではないでしょうか? 今、もしかしたら、そうした困難に遭遇している方もおられるかもしれません。世界の情勢がますます混乱に向かっている中、人々もそれに巻き込まれたり、またそうでなくても周りを見て不安に感じ将来に対する行き詰まりを感じている人も少なくないと思います。  イエスが人々から殺されかけた時のことについての、次のように聖句があります:...

前のものに向かって

前のものに向かって わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。 (ピリピ 3章12-14節)...