十月二四日 勝利にのみ込まれた死 (ひとしずく六一九)
ある人達はこう言います。「イエス様は十字架上で殺され、地上での任務は 失敗に終わってしまった」と。
十字架刑は、罪人としての死を遂げるということですから、確かに十字架の死は、敗北のように見えます。
しかし、イエス様の生涯から、その十字架の死を除いたら、私たちは主によって救われることも、また天国に行くこともできなくなってしまったことでしょう。 そして何よりも、イエス様の苦しみと死は、イエス様と私たちを、愛の絆によって一つに結ばせたのです。私たちがイエス様への敬慕の念を抱くのは、多くの人が目をそむけたくなるような、無残なその死に方のゆえでもあるのだと思います。イエス様の十字架での苦しみは、私たちのためであり、深い 愛から来ていたからです。人々に見捨てられ、見下げられ、あざけられ、その全ての苦しみをイエス様が受けて下さったのは、私たちをそんなにも愛して救うためだったのです。
こんな話を思い出します。ある母親は、顔にやけどの跡がありました。その子供は小さい 時、そんなことはあまり気にしていませんでした。母親はとても優しく、子供は彼女が大好きだったので、お母さんがどのような姿であっても関係なかったのです。しかし子供は大きくなっていくにつれ、母親の顔を気にするようになっていきました。そしてある時の授業参観に、母親に来てほしくないと言ったのです。 子供は、母親の姿を恥ずかしいと思うようになったからでした。そこで母親は、顔にやけどを負ったその真相を、愛するわが子に打ち明けたのでし た。この顔のやけどは、昔、火事が起こった時に、赤ん坊を火の中から助け出すために負ったものだと。その赤ん坊が自分だと知った子供は、それ以来、母の顔のやけどの跡を、恥ずかしく思わなくなったばかりか、母の自分への愛の証しとして、見るようになったということです。
私たちにとっても同じです。イエスさまの悲惨な十字架上の死は、惨めな敗北ではなく、私たちへの深い愛の象徴なのです。今、十字架を見る時、私たちは愛を感じるではありませんか? 十字架とは元々、処刑道具であったものです。イエス様はその恐ろしい十字架、惨めな死を、最高の愛の象徴に塗り替えられたのです。 どうしようもなく恐ろしい罪のための代価の刑罰としての十字架の死、罪に対する呪いとしての十字架の死を偲ばれたイエス様の愛–こんな奇跡があるでしょうか? 誰かが言うように、それは決して敗北でも失敗でもないのです。イエス様が命をかけて示して下さった愛こそ が、私たちに生きる希望と命を与えてくれたからです。
主が失敗されたと言う人は、もう一つ忘れている大事なことがあります。それ は、イエス様はその十字架上で死んで朽ち果てたのではなく、三日後に復活されたという事実です。
主は今も生きておられ、私たちのために、命を捧げてくださったその変わらぬ愛をもって、私たちを愛し、いつも共にいてくださるのです。
イエス様の十字架上の死は、失敗でも敗北でもありません。それは完全なる素晴らしい勝利だったのです!
彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。 また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれ の不義のために砕かれたの だ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。(イザヤ五三章二~五節)
「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。 死よ、お前のとげはどこにあるのか。」 …わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。(第一コリント十五章五四、五五、五七節)