天を映し出す

十月二〇日 天を映し出す (ひとしずく六一八)
 新宿御苑で撮ったという写真を、友人がプレゼントしてくれました。
美しい青空が緑の木々に囲まれています。
「きれいだね」と言って見ていると、「これ、逆さまです。これは池に映った青空の部分です」と友人が教えてくれました。よく見ると、確かにそうでした。その美しい風景は池の水面に映し出されていたものでした。まるでトリックアートのようです。
 水面が静まっていると、こんなにもきれいに風景が映るものなのだと、感心してしまいました。私はこの写真を見て、人の心も、これだけの天の静けさと平安を映せたらすごいだろうなと思いました。
 主は、「静まってわたしこそ神であることを知れ」と言われます。私の心は、ちょっとしたことで、波立ってしまいます。その波立った水面では、天の静けさも平安も映し出されるわけもなく、人々の目にもそれは見えません。ただ波立つ心だけが見えるのです。これは、とても考えさせられることだと思いました。私を見て、人々は天を見ることができるか、それとも波立った思いを見ることになるのか・・・。

 人は試練の嵐を避けて通ることはできません。それは神を信じている者にとっても、例外ではありません。しかし、少なくとも神を信じている私たちには、その試練は決して耐えられないようなものではなく、また逃れる道も必ず主が備えて下さっていると知っています。そして、それは全て私たちの益になるということも。

あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。(第一コリント一〇章一三節)

完全な調和の内に、神に支配されている天を仰ぐことによって、また嵐の中に静けさをもたらすことのできる神の子イエス様を見つめることによって、どんな試練の中でも、心に美しい天の静けさと平安を映し出すことができますように。

イエスは起きあがって風をしかり、海にむかって、「静まれ、黙れ」と言われると、風はやんで、大なぎになった。(マルコ四章三九節)

わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。(第二コリント三章十八節)

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