十月十七日 あなたの信仰通りに (ひとしずく一七〇八)
忠実な者には、あなたは忠実な者となり、欠けた所のない人には、あなたは欠けた所のない者となり、清い者には、 あなたは清い者となり、まがった者には、かたいぢな者となられる。あなたはへりくだる民を救われる、しかしあなたの目は高ぶる者を見てこれをひくくせられる。(サムエル記下二二章二六~二八節)
この聖句は、また次の聖句にも通じるところがあると思います。
「あなたの信じたとおりになるように」(マタイ八章十三節後半)
これらの聖句を通して、私たちの霊的な生活にとって、信仰がとても大切な要素だと いうことが言えると思います。
神への信仰と、神への愛は、とても 強いつながりを持っています。私は神を愛しているけれども、信じてはいない、ということはありえないからです。
人はどんなに恵まれた境遇にあっても、いくらでも、欠けた部分を見つけ、不満を抱き、また神に対して不平を並べ、神の誠実さに疑問を抱くことができます。 これは神に喜ばれないことであることは言うまでもありませんし、祝福を受ける方法ではありません。
イスラエルの民が、主による大いなる奇跡をもってエジプトから脱出できたにもかかわらず、荒野で与えられた天使の食物のマナについて不満を言い、自分たちは肉を食べたいとつぶやきました。
彼らのうちにいた多くの寄り集まりびとは欲心を起し、イスラエルの人々もまた再び 泣いて言った、「ああ、肉が食べたい。われわれは思い起すが、エジプトでは、ただで、魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも。しかし、いま、われわれの精根は尽きた。われわれの目の前には、このマナのほか何もない」。(民数記十一章四~六節)
彼らには数々の感謝すべきことがありました。彼らはエジプト人による苦役から解放されていましたし、荒野を進む時、神は天使のパンが与えられ、外敵からは天使達によって保護されていました。
彼らは神を賛美し、感謝する代わりに、神に対して不平をつぶやいていたのです。人は、自分を取り巻く神の慈しみや恵みに感謝するのではなく、欲心から自分が今手にしていない物に関心がいくという罪深い性質を持っているようです。
そして欲しいものが与えられないと、泣きわめいてそれを主張する子供のようになるのです。果たして、民は悪態をついた後、神からその求めるものを得ることができましたが、滅ぼされてしまいました。
主のもとから風が起り、海の向こうから、うずらを運んできて、これを宿営の近くに落した。その落ちた範囲は、宿営の周囲で、こちら側も、おおよそ一日の行程、あちら側も、おおよそ一日の行程、地面から高さおおよそ二キュビトであった。
そこで民は立ち上がってその日は終日、その夜は終夜、またその次の日も終日、うずらを集めたが、集める事の最も少ない者も、十ホメルほど集めた。彼らはみな、それを宿営の周囲に広げておいた。 その肉がなお、彼らの歯の間にあって食べつくさないうちに、主は民にむかって怒りを発し、主は非常に激しい疫病をもって民を撃たれた。(民数記十一章三一~三三節)
また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、 「死の使」に滅ぼされた。・・・」 (第一コリント一〇章一〇節)
主は彼らにその求めるものを与えられたが、彼らのうちに病気を送って、やせ衰えさせられた。(詩篇一〇六章一五節)
いくら神の愛を知っていても、それが真の信仰に結びついていないのなら、また試練の時、神の約束に対する信仰を捨ててしまうのなら、あのイスラエルの民が、神様が約束されていた地に辿り着く代わりに、途中で絶えてしまうということになり得ます。
神様の豊かな恵みと慈しみに取り囲まれていることに、私達の目が開かれるように祈り求めましょう。
信仰がなくては神に喜ばれることはできない(ヘブル十一章六節)
わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこ しえに主の宮にすむでしょう。 (詩篇二三章六節)