十月十六日 力は主から (ひとしずく一七〇七)
今日一日、やり抜くための力が十分にあるようには思えない…。
主を信じているのだから、もっと神の力に満たされていて、良いのではないかとも思う。
今日の仕事、不得意な人達、また解決されていない問題、山のように大きくなり続ける仕事量・・・。
力は尽き果て、できることなら、全てを忘れて、布団の中に留まって眠り続けたい・・・。そんな人もいるかもしれません。
「私たちの力はどこから来るのか?」このことについて、考えてみたいと思います。
もし、自分を力づけるものが、環境から来ているのなら、環境がうまく整っていない状態では、力も欠けるということになります。また、もし一緒に働く人、自分の伴侶、自分の仕事の内容、あるいは自分の能力、経験などが、自分の力となるのであれば、それらが、理想の状態でないなら、十分な力を得ることができない、ということになります。
これでは、悪化するように見える状況の中で、自分のパフォーマンス・レベルもますます落ちていくということは当然の結果として予想出来ます。これからの状況があらゆる面で逼迫するかもしれないと思える環境の中で、私たちは、力を、自分をとりまく環境からではなく、また自分自身からでもなく、何かもっと頼りになるものから摂り入れる必要があります。次のような聖句があります。
最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。(エペソ六章十節)
これには何の力によって強くなるべきか、ということが記されています。つまりそれは、「主の力」によってです。天地を造られた偉大なる方の力です。 そして、そこに「主にあって」とあります。これはどういう意味でしょう?新共同訳では「主に依り頼み」とあり、原文校訂による口語訳では「主に結ばれ」となっています。これらの言葉からすると、主と一つになってということです。 私たちは主に結ばれているなら、主のなさろうとしていることを、主と一つになって行うのであり、そうすることで主の力によって強くされることができるということではないでしょうか?パウロも次のように述べています。
その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。(第二コリント四章七~九節)
このように、私たちの力が尽きそうでも、力が神からであれば、その力は尽きることはないのです。私たちの計画は頓挫しても、神の計画は絶対に敗れることはありません。主と一つとなって、主の御心を行うなら、主の大いなる栄光の業を見ることができるのです。
ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。(第二コリント十二章九節)
あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。
年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。 (イザヤ四〇章二八~三一節)