山頂まで行かなくてもいい

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2023年10月9日

十月九日 山頂まで行かなくてもいい (ひとしずく六一三)

昨日、山登りが大好きという女性に出会いました。そして彼女が感じている山の魅力について色々聞くことができ、とても興味深いと思いまし た。

  彼女曰く「ある人は、ただ山頂を目指すことしか考えず、ひたすらわき目もふらず、ただ山のガイドブックに書かれている山頂までの所要時間より、早く山頂に立つことだけが目的であるかのように、歩く人がいるの。その途中にどんなにきれいな花が咲いていようと、鳥の鳴き声がしようと、何の興味もなく、ただひたすら歩くだけなの。私はその反対ね。私は別に山頂まで行かなくても、いいとさえ思ってるの。なぜなら私の山登りの目的というのは、元々、高山植物を楽しみ、その写真を撮ることだから。標高1500メートルを越えたら、あまり花は見られなくなり、もう登ってもつまらないから」

彼女は、自分にとって人生で最高の楽しみである登山をするため、仕事はほどほどにしながら、月に三、四回北海道から九州までの、様々な山登りを楽しんでいるということでした。「仕事をがむしゃらにするだけの人生なんてつまらないじゃない?」と言った彼女の言葉から、山登りと人生のスタイルが似ているように思えました。

  彼女のパートナーは、山頂を目指す人だそうで、彼女も山頂まで登るには登るそうですが、目的は、パートナーとは若干異なるようです。ほとんどの登山家達、または素人でさえも山登りをする際は、山頂制覇をビジョンとゴールにしているのではないかと思います。しかし、彼女にとっては、その山頂までの道のりでの、花との出会い、新しい発見こそが大切なのです。希少な小さな花の美しさに感動する時間さえ持たずに、山頂踏破に夢中になることなど、彼女にとっては、全く意味を見出せないということでした。

  私は、彼女の山登りスタイルや人生スタイルに共感が持てました。

何か目標を持ち、到達するべきゴールを決めて、それに向って前進することは、何も悪いことはないと思います。「ビジョンが無ければ、民は滅びる」と聖句にもありますので、人にはそれが必要だと思います。しかし、目的地に急ぐあまり、道端の小さな可憐な花や、季節の移り変わり、また空の色や、朝日や夕日の美しさなど、神様が与えて下さっているそれらの愛の贈り物に気づかないなら大切なものを逃しているように思えるのです。

  そして、神の愛に気付き楽しむだけではなく、私たちの人生の目標が、神様が言われたように「愛すること」であるなら、途中での「出会い」 や「他の人の美しい行い」に感動したり、感激できるようでありたいし、そうしたことを、達成や到達にとって無駄だから、切り捨てていくという考え方は、あまりにも人生をつまらないものにし、価値のないものにしてしまう可能性があると思うのです。

  良きサマリヤ人の話を思い出します。ある律法学者が「わたしの隣人は誰ですか?」と尋ねた時、イエス様が言われたたとえ話です。その話の中で、道ばたで傷ついている人を見かけたけれども、「道の反対側を通って行った」神様に仕える人たちのことが語られています。彼らはきっと大切な用事があって急いでいたのかもしれませんし、あるいはその人を助けても自分の益にはならないと利己的な思いで過ぎ去ったのか もしれません。

  しかし、立ち止まって助ける人もいました。彼はサマリヤ人で、ユダヤ人には軽蔑され、彼らは互いに話もしない間柄でした。しかし、そのサマリア人は、屈辱や恨みを脇において、傷ついたユダヤ人をかわいそうに思い、立ち止まって助けるのです。目的地に急ぐことだけを考えていたら、おそらく立ち止まらなかったことでしょう。しかし、彼はそこに神様のご計画を見たのだと思います。彼はそこにある神様の導きに従いました。神様が「愛するように」と置かれた人の必要に気づき、立ち止まったのです。そして神様の呼びかけに応えたのです。

  私たちの人生は確かに、何らかの目標に向かって進んでいるわけですが、その目標に進む計画とは、あくまでも自分の計画であり、その計画を果たすために、神様の呼びかけに耳を貸さない、あるいは気づかないで進んでしまっては、それこそ何のための人生なのでしょう?神様の言われることに従うためなら「山頂まで行かなくてもいい」(自分の目標、計画通りに行かなくていい)と言えるだけの心のゆとりがほしいものです。

どうか私たちが、目的地に向かうことの意味を忘れることがないよう、また目的地に急ぐことではなく、主が示されることを優先できるよう、主が助けて下さいますように。

するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。

彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。

彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。

彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。

すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。

イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺し にしたまま、逃げ去った。

するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。

同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。

この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。

彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。(ルカ十章二五~三七節)

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