十月七日 この世で報われなくとも (ひとしずく六一〇) 「神は真実を見ているが、すぐには現さない」というタイトルの、トルストイが書いた短い話があります。あらすじは次の通りです。 誠実で、善人である、ある商人が、全く身に覚えのない罪を着せられ、殺人罪に問われます。裁判でも彼の主張は取り上げられず、妻の皇帝への直訴の手紙も届きません。そのうちに妻までもが彼を疑うようになるのです。 彼は結局、無実を認められず、シベリアへ送られ、そこで何十年もの時を過ごします。そして、ある日、同じ故郷から送られてきた囚人と出会うのですが、この囚人こそ、自分をそのような事態に陥れた張本人だと知るのでした。 彼は、はじめ、その男を赦そうか、赦すまいか悩みますが、結局、その囚人が、大変な事態に陥った時、助けることさえします。そして、やがてその囚人は悔い改めて真実を告白し、無実の罪を着せられた商人は、晴れて自由の身となる時が来ます。しかし時すでに遅し・・・もうその時、商人は死んでいたのです。 物語はそこで終わりです。虚しさが残るような切ない話ですが、とても考えさせられる話でもあると思いました。このような事は実際あり得ると思います。 地上では、誤解され、疑われ、非難され、自分の犯した間違いでもないのに、そのとがを身に負って代わりに刑罰を受けるというようなことが。 もし、そうだとしたら、真実をすべて御存知である神様はどうしてそのようなことが起るのを許されるのでしょう? 無実の罪で刑務所で一生を終えるような、悲惨な人生から、神はなぜ、助け出されないのでしょうか?私はこのように思います。 彼の受ける報い(報酬)は、この地上では値するものがない・・・つまり彼の受けるべき報酬は大きすぎて、天国において報いるのがふさわしいと、主は見られたのではないかと。こんな聖句があります。 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。(マタイ五章十二節) この聖句をよく見ると、受ける大きな報いは「天において」とあります。これは地上では報われないこともあるということであり、その替わりに、天国で地上で受ける以上の大いなる報酬が与えられるということです。 これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。(ヘブル十一章十三節) この聖句からも、多くの信仰の人たちは、この地上では約束の成就や報酬を見なかったというのがわかります。それらの人たちはこの地上で報われるのをあきらめました。そして主の約束だけを望み見て、心に喜びを抱いていたのです。そんな彼らの報酬は天国において本当に大きいと思います。 ところで、敬虔なクリスチャンであったトルストイは、この無実の罪を着せられた商人を、主イエス様の姿に重ね合わせたのではないかと私は思います。イエス様も、何の罪も犯されなかったのに、私たち人間の罪をかぶって死んでくださいました。それもイエス様は自分をあざけり、殺そうとした者たちのためにも、惜しまず命を捨ててくださったのです。しかし、そのように無残な死を遂げたかのように思われたイエス様は、その後復活して、私たちの救い主となられたのでした。きっとこの世で、報われることのなかったトルストイの話に出てくる商人のような人達も、そして、かつてこの世で神や人のため、世のために命を捧げた多くの人たちも、全てを見ておられるイエス様によって、天において大きな報酬を受けているのだと思います。 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。(ピリピ二章六~九節) だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。(第一ペテロ五章六節)
イエス・キリストの生涯-38
イエス・キリストの生涯-38 聖書の基本4 https://ichthys.com/4A-Christo.htm ロバート・D・ルギンビル博士著 j. 最後の過越の祭り<ii>: 十字架につけられる前の最後の一週間に関して聖書は、ベタニヤでマリヤがイエスに油を注ぐことから始まり(すなわち、ヨハネ12章1節の「6日間」)[1]、そこに起こるほとんどすべてのことは、イエスがこの初降臨の最終段階を通して弟子たちに予告しようとしてきた本質的な真理を前もって示す役割を果たしています(例えば、マタイ16章21-26節,...