安息日

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2023年10月6日

十月六日 安息日 (ひとしずく六〇九)

十一 月に家族で秋田に行くことができるようになりました。最初は状況から見て不可能に思えましたが、主は私たちの祈りを祝福し、それを叶えて下さったのです。 これは主が単に祈りに答えて下さったということだけではなく、家族が共に同じ時を過ごし楽しむということが、主の御心に適ったものだったからだと思っています。

主は私たちが家族、または友人などと、絆を深め互いに楽しい時間をとることを本当に喜ばれるのだと思います。私たちは、ともすれば、ただ生活と仕事の忙しさに追われ、そしてそれを優先順位の第一に置い て、いつしか家族や友人たちと、お互いのための時間をとることを、後まわしにしてしまいがちです。仕事を休むことの代価を考えて、主がその時望まれている大事なことを、簡単にあきらめてしまうのです。

しかし 「自分はこの人生で何を優先順位にして生きているのか」ということを考えて物事を決断するのは、とても大切なことだと思います。

旧約聖書の時代には、神様は、仕事から離れて休むことを命じられました。出エジプト記二〇章八節には、「安息日を覚えて、これを聖とせよ」とあります。休まず働くというのは、神様が定められた、第七日を聖なる日とし、安息日とするという戒めに反することになります。休みなしで働くことが美徳とされる日本においては、それは理解しがたいことかもしれません。

今、私達は、旧約の時代の律法の規則の束縛から、キリストが下さった恵みによって自由なので、安息日を破ったから裁かれるということはありません。ただ、全ての律法について同様に言えるように、その本質は、私達の益のために作られたものです。私達の霊と精神と肉体を造られた神様は、私達が働き尽くめだと良くはないと知っておられたのです。規則にでもしないなら、人間は、休む事無く働き続けるだろうと知っておられて、そうした規則を作ってくださったのです。神様が人間の体を造られた時には、おそらく人間の体に七日に一日は休むようなリズムを組み込まれたのでしょう。

イエス様は、さらにその本質をついてくれました。安息日には、私達が、自分を造って下さった創造主である神様、日々私達を見守り生かしてくださる神様を心から深く愛し、感謝し、喜び褒め称えるため、また同じく造られた者同士が、愛し合うために、生きるべきことを教えて下さったのです。

「何もしてはいけない日」というわけではなく、人が仕事をわきに置いてもっと容易に神様と人を愛することに集中できるようにという日なのです。

ついに休みがもらえて自分達のしたいことをしたのに、空しさが残るというのは、「神を愛し、隣人を愛する」という本質を見逃しているからだと思います。

 「自分は仕事で忙しいんだから、神様だの、人様だのかまっていられない」と言っているなら、車軸からはずれた車輪であっても構わないということを言っているようなものになりかねません。人間が、この地上に送られて、生きるようにと与えられた神様からの指針「神を愛し、隣人を愛する」ということをいつまでもないがしろにしていては、思わしくない結末に至るのは当然の事です。

 神様の恵み深さを喜び、他の人の愛の行いに気づき、それに感謝すること、そして同じく、造られた者同士に対するいたわりや助けの手を差し出すこと、こうした心の愛の余裕は、愛の神様との交わりの中に 高められるものだと思います。

朝早く起き、夜おそく休み焦慮してパンを食べる人よ、それは、 むなしいことではないか。主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。(詩編一二七篇二節)

主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。 (出エジプト記二〇章一一節)

安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざもしては ならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。(出エジプト記 二〇章八~十節)

わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。わたしの身もまた安らかである。(中略)あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。(詩篇十六篇八、九、十一節)

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