時間という贈り物

四月三十日 時間という贈り物 (二〇一二年四月 ひとしずく七九七)

 主は、どうして「終わりの時のしるし」ということについて知らせてくださったのでしょう。それは、私たちが心を備えるためであると思います。
主は、時を越えて存在しておられる方であり、初めであり終わりであられる方(イザヤ四四章六節)です。しかし、私たち、時間に制限されている者にとって、今、何時か?ということは大切な話になります。時間に合わせて、備えをするからです。主が私たちに時間を下さっているのは、私たちがその時間に正しい決断と選択を行うためと言えると思います。
 時代の兆候と、主の語られた「終わりの時のしるし」とを照らし合わせることによって「もうこの世の終わりが来ている」ということを知った上で、では自分はどんな生き方をするのか?神は私に何を求めておられるのだろうか?と自分の心を探り、生き方を確認するために、この「終わりの時」の準備期間が与えられているのではないでしょうか?


 そうです。主は、優しくも、そのための時間を与えて下さっているのです。

そして、私たち一人一人にこう呼びかけておられると思います。

「本当なんだよ。この世は過ぎ去る。新しい時代がやってくる。もうすぐ私はこの地上に再び現れる。あなたは、今のままで良いのですか?自分の人生について満足と確信がありますか?この世は終わります。その時、あなたに悔いはないですか?」

 相手に考える時間と準備の時間を与えるというのは、忍耐ある愛の行為です。神様は、忍耐をもって私たちを教え諭し、私たちが真理に気づき、受け入れることを喜ばれるのです。

 ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。(第二ペテロ三章九節)

 主がそのようにして私たちに与えて下さっている時間という贈り物は、恵みです。目に見えるもの、世の有様、この世は過ぎ去ります。しかし、真理である神の言葉、イエス様を通して与えられている愛、そして私たちが主にあって行うことは永遠に残るのです。

 私たちは、永遠のために生きているでしょうか?この世は過ぎ去るとも、永遠に残ることのために生きることができます。それは、神様の愛に生きることです。

時間と言う恵みを与えてくださっている主に感謝し、今日、その永遠に残る愛のために生きることができますように。

天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。(マタイ二四章三五節)

愛は決して滅びない。(第一コリント十三章八節)

世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。(第一ヨハネ二章一七節)

他の投稿もチェック

義に飢え渇く者

ひとしずく1559-義に飢え渇く者 (2014年配信) 最近、Dさんに十何年かぶりに再会しました。今、彼は単身赴任 で、福島の相馬で働いています。以前、私たちの聖書クラスに来ていましたが、彼が九州に引っ越しして以来、会う機会はありませんでした。 しかし、彼が東北に来て、先月から月に 一回、私が那須にいる時に、聖書を一緒に学ぶために、彼は公休日前の日に一泊の泊りがけで相馬から那須にやってきます。仕事が終わってか ら車で来るので、那須に到着するのが夜の9時...

誰 の声に従うのか?

ひとしずく1557-誰 の声に従うのか? ある人が、クリスチャンではない 友人たちに自分の悩みを相談し、その友人たちの言う通りに行動した結果、その結果が結局自分の望んだこととは反対のことが起ってしまった ことを非常に悔やんでいました。自分はそうは思っていなかったのに、友人たち皆が口をそろえて同じ事を言うので、自分もいつしか彼らと同 じ気持ちになってしまっていたということでした。今思えば、その決断は主の見方、やり方ではないし、自分の本心でもなかったと、寂しそう に言っていま した。 私たちはよく、神を恐れるよりも...

聖書の中の偉人たち

ひとしずく1556-聖書の中の偉人たち  有名な人の生涯を見て、その数々の偉業に、凄いなという印象と圧倒される思いを抱く事があります。しかし、そこからいくらか学べることはあるものの、励ましを受けるより、自分にはそんなこと、とてもできそうにないとがっかりしてしまう場合があります。  反対に、偉大な人たちの失敗や罪を見る時、こんな偉大な人でも罪深いところがあり、それにも拘わらず、神様は彼らを赦し大いに用いられたのだとわかると、とても励まされるのではないでしょうか。もしかしたら、自分にも希望があるかもしれない、と。...