四月二六日 練られる時 (二〇一四年九月 ひとしずく一六七三)
賀川豊彦は壁に耳を傾けると、そこから声が聞こえる、というようなことを語りました。確か獄中の体験からの言葉であったと思います。あれほど、神のために生き、人のために犠牲となって身を捧げた彼が、そのような状況に置かれたのです。
主イエスに従い、主の愛のいましめに従おうと、一歩を踏み出したのに、障害だらけ、というような事が起こる時があります。つい、そんな時、主はこれをごらんにならないのか??なぜ何もしてくださらないのだ?という不信の念に駆られる人は少なくないと思います。
しかし、目の前に立ちはだかる壁は、本当に自分が前進するのを妨げる障害物なのでしょうか?
もちろん、それを肉の目で見るなら、障害物となるでしょう。 しかし、私たちにとって、そうである必要はありません。霊の目を開き、霊の耳で聞くなら、その壁から漏れてくる主の御声があります。
それは主の御用意されたものです。その壁を、神の開いてくださる霊の目で見るなら、私たちはその神の力の前に、それがもろく崩れ落ち始めていくのを見るか、逃れ道が備えられているのを見出すのです。
あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。 (第一コリント十章十三節)
たとえそれが、敵が神の意志を阻止しようと、閉じこめ押しつぶそうとする試みであっても、神の力と意志に抵抗しようとする敵の脅しは、実は、空虚なものであり、神の御心に逆らって立ちはだかろうとしているどんな勢力も、すべて無に等しいものなのです。現実にも神が、それらのものを蹴散らし、取り除いてくださる時が来るでしょう。
私たちは、何かを成し遂げなければならない、と思い込んでいるものがあるかもしれませんが、実は、それらの事は、大して重要なことではないのかもしれません。
大事なのは神が共にいて下さり、神が成し遂げて下さるという信仰です。
私たちは、どんな中にあっても、イエス様を信じ続けているか? この障害のように見える壁を前にして、イエス様は尚、全能の神であられると信頼しているか?
理由あって、神は障害が立ちはだかり、あるいは悪が猛威を振るうことを許されたことについても、神は愛であり、神には完全なる御計画がある、と確信しているか?ということであると思います。
全能の神は、どんなことでもできないはずがありません。その神が、あえて私たちに任務をくださったのは、私たちが神に信頼し、信じ続けることを学び、成長することを願ってのことだと思います。そして神の聖なるご計画が成し遂げられるために、悪が悪であることを露にされるためでもあることでしょう。
私たちはますます暗黒の時代に入って行きます。そして、それと共に、神に煉られることも多くなって行くことでしょう。どうか、生ける愛の神により頼み、希望と感謝をもって進むのを助けて下さいますように。
多くの者は、自分を清め、自分を白くし、かつ練られるでしょう。しかし、悪い者は悪い事をおこない、ひとりも悟ることはないが、賢い者は悟るでしょう。(ダニエル一二章一〇節)