四月二五日 二人の主人、神と富 (ひとしずく一一一九)
「スイスの神学者ジャン・カルヴァンは、そのヘブル人の預言者らについての注解において、神はその貧しき者と一体であり、 彼らの叫びは神の痛みを現していると述べている。」(「The Reason for God」 ティモシー・ケラー著)
栃木のアジア学院で働いている、フィリピン人ジルさんの興味深いお話がブログに載っていました。
ジルさんの故郷の村はフィリピン政府が水力発電所建設のために移動しなければなりませんでした。一九七二年から政府との交渉が始まり、一九八二年には、関連する全ての村が移動し始め、一九八七年にはジルさんの家族が、その地域を離れた最後の家族となりました。以下はARIでの朝の集まりで、ジルさんが話したお話の抜粋を翻訳したものです。
「私たちの住んでいた共同体にはほとんど全てのものが備わっていました。
今、自分が置かれた境遇と比べてしまいます。
森は私たちのスーパーマーケットのようなものでした。そこで果物が手に入ります。そして野菜も手に入りますし、建築資材も手に入ります。あらゆる種類の建築資材です。そこには木材や蔓がありますし、籐(とう)があります。非常に優れたものです。
川はもう一つのスーパーマーケットです。私たちはそこから沢山の魚、あらゆる種類の魚を手に入れることができます。季節には蟹を捕まえることができます。川の土手の新鮮な草で家畜を飼うことができます。川はまた水浴の場でもあります。
私たちの村では、その全てがただだったのです。無料なのです。ここではスーパーマーケットに行っても、買うことをしなければなりません。
私たちは誰でも、ただ決められた規則を破らない限りは、森で何かを手に入れることができました。たとえば使わないのに無駄に木を切ってはいけないといった規則です。
だから違いは、そこでは全てがただだったということです。必要なものを手に入れるためには、お金は必要なかったのです。 農繁期の時は、よく私の兄が「さぁ、隣のアーサーさんのところに行って助けよう。今、畑を耕すところだから。」と言ったものです。そして、助けに行きます。また私たちの農作業を、アーサーさんが助けに来るのです。他の村の人たちも助けに来たりするのです。
私たちの村には、昔から守られていたしきたりがありました。「タブー」と呼ばれているものです。今、それを行うことはとても難しいです。 村で「これはしてはいけない」「これをしたら善くない」と言われているしきたりですが、それは疑問の余地のない絶対的なものでした。私たちはただ長老たちがそうすることは善くないということを信じ、それに従うのです。子供たちは従うのです。大人が「その種類の木から実をとって食べてはいけない」と言われたらそれは絶対的なことでした。もし上っていると、「木に上っていたな。見つけたぞ、長老たちに言いつけてやる」と言われたら、即座に降りたものです。私たちは長老たちが「期間は終わった。木に上っていい」と言うまで誰も木に上ろうとはしませんでした。
村にはこんな具合に沢山のしきたり、規則がありました。外部からの助けもなく、私たちの共同体は結婚式、病気になった時、感謝祭、また他の様々な行事のしきたりがありました。そんな共同体でした。
ところが突然、この大きな変化が私たちの村にやってきました。大きなダム建設のプロジェクトが始まったのです。幾人もの政府の人たちがやって来て、「ダムの建設が始まる」と言いました。
私たちの村は二つの支流が一つになるところに位置していました。川の下流に政府は開発プロジェクトとしてダムを建設するということでした。ルソン島の人たちのための発電をし、何千ヘクタールもの土地の灌漑をするためだということでした。それがそのダムの目的でした。
話合いが始まりました。村人たちは危機感を覚えていました。どうして? 何が起っているの? そのダムというのは何? 多くの人たちは実際のところ理解していませんでした。私がまだ四年生の頃のことだったので、私もしっかりは理解できていませんでした。ただ村が閉鎖されるということだけはわかりました。下流に大きな壁が作られるので、水が溜まって、その水が村まできてしまうということでした。それが私の分かることでした。
協議は何年も続きました。そして全ての共同体は受諾しました。 私たちの村は、ダムの貯水によって水没する十の村のうちの一つに過ぎませんでした。その協議の間中、沢山の闘争が起りました。フィリピンの共産党の武装勢力も、私達が政府に反対して戦うべきだと説き伏せる為にやってきました。そして政府の団体もまたそのプロジェクトを受け入れて村から出て立ち去るべきだと説得するためにやってきました。
私たちの村にとってはとても困難な時でした。多くの人たちは戦うつもりでした。その共同体を捨てたくなかったのです。しかし、十の村との協議の結果、最後に残された道はただ村を捨てて政府に従うということでした。というわけで私たちは、村を離れました。私たちは新しい居住地に行ったのです。
新しい村では、全てが型にはまっていることがわかりました。型というのはただ何でも仕方に従わなければならないのです。家はこんなふうにまっすぐ並んで、道もこんなぐあいでまっすぐ。みんな一様なんです。
ほとんどの方針も規則も外の人たちによって決められました。方針を作るのには私たちは関わることはできませんでした。ただ従うだけです。村の長老たちは指導者層に入ることはできませんでした。彼らは脇に押しやられ、若い人たちに指導権が渡されました。
そして新しい生活様式が始まりました。大きな変化でした。とても素早い変化でした。共同体の生活のリズムはどんどん速くなっていきました。村の中ではもっと沢山のお金が関わるようになりました。売り買いのつながりになりました。楽しむにもお金を払わなければなりません。ただではありません。町で映画を見るにもお金を払わなければなりませんし、自転車のためにもお金を払わなければなりません。分かち合うというのはないのです。村の皆がお金はあまり持っていませんでした。人々は個人主義にならなければなりませんでした。もう分かち合うこともなくなりました。お金は大して分かち合うことができないものです。
そして私が見たのは、村の慣習や伝統が消えていったことです。私たちは沢山のものを失いました。もうないのです。とても新しくなりました。そして私たちの長老たちもまた、早く死んでしまいました。とても早かったです。次から次 へと私の祖父も含めて、早く死んでしまいました。
だから時々私は思うのです。人に役立つというはずの開発は、私たちに必要だったのか? と。 ・・・・・ (以上ジルさんのブログから)
最近、ニュースで、経済が第一と、首相が語っているのをよく耳にします。経済がうまくいくなら、全てがうまくいくと。また経済の発展を計りながら瑞穂の国の伝統を大切にしていくということでした。そして助け合う瑞穂の文化を守りますと。
しかし、本当にお金まわりを良くし生活を豊かにと唱える経済第一の政策で、昔ながらの良い慣習は維持できるのかと疑問に思います。特に貧しい農村地の人の文化を大切にできるのかと思うのです。
そもそも、お金なしでは暮らしては行けない社会を作り出したことが、間違いだったのでしょうか?
ジルさんのお話を考えながら、神様が人間に意図された生き方はどんなものであったのかと、 考えさせられました。
だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。(マタイ六章二四節)