四月二四日 傲慢な神? (二〇一三年三月 ひとしずく一一一八)
キリスト教の神様って、他のどんな神様よりも自分が上だって言うんでしょう?
他の神様よりも自分とこだけを高くするっていうのは、傲慢じゃない?
こういう意見を聞きました。なるほど、日本では昔から、山の神、海の神、池の神、そして台所の神からトイレの神様まで、ありとあらゆる神様が存在すると信じてきたので、唯一の神というと、他を全面否定しているようで、傲慢に聞こえてしまうのはわかる気がします。
キリスト教自体も、傲慢に思える数々の過ちを犯してきました。歴史を見れば、十字軍の遠征など、他の宗教は邪教だからと言う事で、略奪殺戮が容認されましたし、信条の違いによって魔女狩りがなされたという悲しい事実もあります。
これらの過ちは、確かに傲慢による罪であったと思います。自分達の絶対性を信じ、他を排斥したり、見下したりすることの罪であったと。
ですから、キリスト教は傲慢だという印象を持たれても、仕方がないと思います。
しかし、キリスト教とイエス様とは異なります。キリスト教は人間が作ったもので、それが不完全なことは仕方がありません。しかし、それらの過ちから目を離して、イエス様ご自身に目を留めなければ、イエスがどのような神であるかどうかということはわかりません。
イエス様は・・・
神であられたのに、人となって地上に現れてくださった方
私達の救いのためにあらゆる面で人の弱さを身に負われた方
あらゆる権威と栄華を与えると悪魔が誘惑した時にそれを拒否された方
社会からのけ者のように扱われていた人たちと共にいて、彼らの仲間と見下げらることも いとわなかった方
他が生きるために、自分の命を捨てられた方
全世界の罪の贖いのために、最後まで十字架の苦しみを耐え忍ばれた方
復活の後にも、一人一人の心に語りかけておられる方
誰にも話せないような過ちを聞いてくださる方
孤独な時に、共にいてくれる方
決して離れず、決して捨てないと約束して下さっている方
助けが必要な時、どんな時でもその叫びに耳を傾け聞いて下さる方
私たちの小さな愛の行為を心に留めてくださる方
この地上を卒業したら、天国に迎え入れてくださる方
キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。(ピリピ二章六~九節)
この謙遜さにおける偉大さがイエス・キリストの神性の証拠とも言えるものだと思います。
その謙遜な愛ゆえに、罪人が救われるようにと手を差し伸べて下さるイエスキリスト…。その愛と憐れみによって救い出された私たち…。
以下はイエス・キリストについての旧約聖書にある預言です。
私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。
彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって 行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。
しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、 自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。 (新改訳改訂第3版 イザヤ五三章)