四月二三日 主に信頼する (ひとしずく七七二)
私たちは時間と空間とこの肉体という制限の中で生きているので、一度にやりたいこと全てに関わることはできません。またあらゆる人との接触というのも難しいです。
しかし、それが神様の望んでおられることであれば、不可能に思えても神様にはできます。神には何でも不可能なことはないからです。
ただ私たちは、この神様をさしおいて、先ず自分の力で何かをしなければならないという誘惑に常に駆られてしまうところがあるように思います。
主は、必要とあれば時間を逆行させることさえ、おできになります。そうであるなら、私たちが慌てふためくのは、何が理由なのでしょう?
全ては、神様への信頼に行き着くと思います。
主の御前に静まることもせずに、自分があれやこれをしなければ、何かまずいことが起ってしまうという恐れを感じてしまうのは、やはり不信仰からなのでしょう。
主は私たちのいたらなさを越えて、何でもしてくださる方です。
自分が弱い時にこそ、主の憐れみは示されますし、できないところを主は助けようとしてくださいます。
困っている状態の人を助けようとしない神様ではないのです。
私たちに必要なのは、ただ、決して私たちを離れず、捨てない、と言われた主の御言葉を信じ、深く信頼することです。
「主よ、主よ、これをしてください、あれをしてください」と言う前に、静まって主が何を語ろうとしておられるのか、 主のなさろうとしているのは何なのか、静まって聞く態度を持つことが大切なのです。
(祈り)主よ、あなたは、「わたしにつながっていなければ、あなたがたは実を結ぶことができない」とおっしゃいました。私たちが望むものが、あなたの望まれる実である なら、あなたのために、またあの人とこの人のために、あれもしてこれもして・・・と、そんな思いに駆られながら、自分の力で動き回ることに何の意味があるでしょう?
どうか、あなたの前に静まるのを助けてください。
あなたは私たちの全てをご存知であり、私たちが何によってできているかもご存知です。そしてあなたこそ、私たちを創られた方であり、あなたが創ってくださらなければ、私たちは今ここにいません。その私たちを、この状況に置かれたのもあなたです。どうか、そのあなたに、 完全に信頼し、私の目の前に広がる状況に関して、思い煩わず、あなたに全ての判断と決断を委ねることができますように。
あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。
弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。
年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。
しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることが できる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。
(イザヤ四〇章二八~三一節)
あなたは全き平安をもって、その思いをあなたにとめている者を守られる。彼はあなたに信頼しているからである。(イザヤ二六章三節)
主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるから である。(詩篇一二七篇一、二節)
静まって、わたしこそ神であることを知れ。(詩篇四六篇十節)
穏やかにしているなら、力を得る。(イザヤ三〇章一五節)
一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。
主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。(ルカ十章三八節)