四月二十日 その慰めをもって (ひとしずく一一三二)
神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。(第二コリント一章四~六節)
この聖句は本当にその通りだと思います。
あるダウン症のお子さんを抱えた方が、他の身体障害の子供を抱えた親御さんから、頼られ、カウンセルを求められているということです。
何年もの間、自分の子供の養育に奮闘し、忍耐し、愛し、様々な困難や問題を経験し乗り越えてきた彼女の言葉には、力強さと心に沁み入る慰めや励ましが感じられるのだと思います。
また末期癌と宣告されたある方は、その自分の境遇を活かし、癌やその他の病気で苦しんでいる人たちの所へ行き、それらの人々に慰めと励ましを与えました。これはおそらく、健康な人では成し得なかったことだと思います。
またある人は、我が子の犯した過ちの悲しみと辛さを体験してはじめて、他の過ちを犯して刑務所にある人たちのことを本当に思いやることができるようになったと話してくれました。
これらの方々は、いずれも主イエスを救い主として信じ、苦しみ悲しみの中で主の慰めを受けて、進み続けてくることができた人たちでした。そして主に慰められたその慰めをもって、他の人を慰める器として用いられているのです。
主イエス様がいると、自分の通過する闇と試練は、いずれ他の人たちを照らすたいまつの光となります。主にはご計画があって、闇と試練を通過するのを許されました。
ですから、「幸を望んだのに災が来た」(ヨブ三〇章二六節)ように思えても、その試練は決して苦しみや悲しみだけに終わることはないのです。
試練の中にある時、どうかこのことを忘れず、主の栄光が現れるのを待ち望むことができますように。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(新改訳ローマ八章二八節)
すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。(ローマ十四章七節)
たといわたしが暗やみの中にすわるとも、主はわが光となられる。(ミカ七章八節)