四月十九日 時が良くても悪くても (ひとしずく一一三一)
人と人が知り合うには、色々な方法があります。イエス様との出会いも人それぞれ違います。
ある人は、涙の谷を歩んでいる時、慰めに満ちたイエス様に出会います。
ある人は、道ばたで受け取ったトラクトを通してイエス様に出会います。
ある人は福音コンサートや集会でイエス様を知ります。
ある人は真理の探求の旅の末に聖書を読んで、イエス様に出会います。
イエス様を知るのに、決まった形などありません。主は、それぞれのための特別な出会いを計画しておられるのです。ですから私たちもあらゆる人たちに手を差し伸べるために、あらゆる機会を証しのチャンスと捕らえるべきなのだと思います。
造られた者の魂が、その創造者に出会うというのは、その人の人生における画期的な出来事で、最も興奮させられる霊的な体験の一つであると思います。
人と人との出会いが、素晴らしいことの始まりとなるように、主との出会いも、素晴らしい始まりです。いえ、それは言葉では言い現せないほどのものす。
一つ一つの出会いが美しく、希望に満ちたものです。
ついに人生における目的と将来の希望と言えるものに出会ったわけですから。それまでは暗闇の中を歩いていたのに、自分の道を照らしてくれる伴侶なる光を見つけたのです。
そしてその人は、今度は誰かにその希望の光を分け合うのです。
先日、友人から、トラクトを道ばたで受け取ったことにより自分はイエス様を知ることができた、というテステモニーを聞きました。今は、私がとてもお世話になっており、祈りのパートナーとしてとても大切な人です。今までどれほど、この友人に助けられてきたかわかりません。私は、誰かが、その日この友人にトラクトを渡してくれたことを本当に感謝します。きっとその人は、その日、何十、何百ものトラクトを配ったことでしょう。そしてその人は、そのトラクトの一枚がこんな結実をもたらすとは予想もつかなかったことと思います。
また私が学生だった頃、私の住む雪深い町に証しにやってきてくれた人たちを思い出します。彼らがどれだけ、私の人生の祝福になってくれたかを思うと感謝してもしきれません。彼らにとって、それがどんなに困難で犠牲的なことであったことかと思います。
このように伝えてくれる人がいたからこそ、救われた私たちは、その感謝をもってまだイエス様を知らない人々へと伝えていかなければならないのだと思います。
「時が良くても悪くても御言葉を宣伝えなさい」と聖書にあります。
一日中外に立って、トラクトを配ることはできないにしても、バッグやポケットに小さなトラクトを持ち歩いて、いつでも出会った人に渡せる状態にしておくことはできると思います。たとえ自分がうまく説明できなくても、主がそのトラクトを通して語りかけて下さいます。あるいは、今ではネットや携帯メッセージを利用することができるでしょう。
今は終わりの時・・・証しできるのもあとわずかであるかもしれません。夜が来て働けなくなる日が来る前に、忠実に証しに励んで行こうではありませんか。
この素晴らしい愛の神を、今日誰かに紹介できますように。闇の中を手探りで歩いている誰かが、光に出会うことができるように。
今の時を生かして用いなさい。(エペソ五章十六節)
御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。(第二テモテ四章二節)
わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。(ヨハネ九章四節)