四月十六日 祈りの始めに (二〇一三年 ひとしずく一一二九)
弟子たちが、イエス様に、祈りを教えてくださいとお願いした時、イエス様が弟子たちに教えられた祈りの始まりは、「御名があがめられますように。御国が来ますように」ということでした。
この祈りから始めるということには、とても深い意味を感じます。
自分が高くされるためではなく、神様が高くされることが先ず最初に来るのです。
崇められるべきは、私の名前でも名誉でもないのです。主への賛美、何よりも高くされる方は、主であるこということです。
私たちは常に、自分が人からどう思われているか、ということで思い悩んでしまうところがあるのではないでしょうか。また不名誉な存在でいるくらいなら、死んだ方がいいという考えにさえなってしまうこともあります。
神に創られた私たち人間が、そのように名誉を気にするのであれば、この自分を創って下さった方に名誉を与え、褒め讃えることは、当然のあるべき態度と言えるでしょう。王である王の方の前で、口を開く際に、先ず神を褒め讃えること、つまり賛美から始めることは当然と言えることだと思います。
感謝しつつ、その門に入り、ほめたたえつつ、その大庭に入れ。主に感謝し、そのみ名をほめまつれ。(詩篇一〇〇篇四節)
そして「御国が来ますように」という祈りがそれに続きます。私たちは、四六時中、無意識に主の望まれる事ではなく、自分の望むことや自分が良しと思えることを考えているのではないでしょうか。こうして下さい、あのようにして下さいと、こうなればいいと願い、また理想としている状態がなされることを常に願っているのです。しかし、私たちは、本来こう願うべきなのです。神様の御心が成りますようにと。
考えてみましょう。私たちは、自分の「国」ではなく、主の「御国」を望んでいるでしょうか?主の王国が地に確立されることを願っているでしょうか?
私たちは、神様を自分の幸せのために利用して、ご利益のために手を合わせても、神の願いがこの地上に、また自分の人生に為し遂げられることを真に求めることには無頓着になっているのではないでしょうか?
そんな私たちに、イエス様はまず神の御名が崇められること、御国を求めることを第一に祈り求めるように教えられたのです。イエス様は人間というものをよく御存知でした。人間の本能では知りえないことを、イエス様は教えて下さったのです。
そして神の国と神の義とを第一に求めるなら、必要なものはすべて添えて与えられるという法則も。
どうか私たちが祈りの生活の中で、主が教えて下さったように、主の御名が崇められること、神の御国を第一に求める者となれますように。
だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 (マタイ六章三一~三三節)